いしずえ

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#哲学・思想

『童心殘筆』より

温泉行 さーっと湯を流して一人の客が脱衣所に去った後はひっそり閑として唯一人である。 透き徹った湯に心もち身體を浮かして長々と伸びながら、湯桁に枕して思うともなく思いに耽る。 何とも言えぬ心持が好い。 生き返った、確に生き返った。 一生の中勘定…

『童心殘筆』より

温泉行 そうあろう母親は母親でいま頃は首を長くし幼い子が父親にむずかってゐはしないかなどゝ心配して待ってゐるだろう。 「ものいはぬ四方のけだものすらだにもあはれなるかなや親の子を思う」。 私はそっと涙を拭った。 一時間ほどすると汽車は鹽尻につ…

『童心殘筆』より

温泉行 「お母ちゃんは……?」 「お母ちゃんはね、もうちいちゃんの汽車が着く頃だろうと思って停車場に待ってゐらっしゃるよ。」 「ちよーお」子供はさも心細そうにうなづいた。しばらくするとまた父親の膝をゆすり始めた。 「お母ちゃんどうちたの?……」 「…

『童心殘筆』より

温泉行 はどうだ。 ずんと落ちるね。 またトンネルか。 人もまばらな青車室に獨り興じた。 暮靄が蒼然と野山を罩める頃、汽車は諏訪湖の畔にさしかかった。 蒼茫の間に展がる湖光は自然の千愁萬恨を胸深く秘めて居る様で、何となく獨りが淋しくなって来た。 …

『童心殘筆』より

温泉行 何となく面白い。 英邁勇猛の気の亡くなるのは一番いけない。 結局思案倒れになる。 この詩を一つ彼奴等に教えてやろうかな。 彼奴等愕然として悟りはせぬか。 幾家の茅屋ぞ山村静かなり 丁度この邊の景色だ。 岸を夾む桃花溪水探し 溪水探しは實によ…

『童心殘筆』より

温泉行 あの英邁な陽明にもこういうこまやかな述懐がある。 これが無いとあの英邁が却って俗になるかもしれぬ。 俗でも英邁ならまだ結構だ。 今は餘り怯懦でないか。 英米が如何だの、危険思想が如何だの、食うじゃ喰えぬじゃ、妥協じゃ、分裂じゃと、いつま…

『童心殘筆』より

温泉行 山中懶睡とあるな。 何、何、 人間白日醒猶睡のごとし 老子山中睡却って醒む なるほど、 醒睡兩非また兩是 溪雲漠々水泠々 善哉。々々。 俺はこの頃懶睡が出来ぬ。 一つ溪雲漠々水泠々と一世三十年を黄梁一炊の間に眠り去ってしまいたいものだ。 ブロ…

『童心殘筆』より

温泉行 まして相携へて夜店賑やかな上野銀座あたりに、「下駄ころりからり彼奴等の夕涼み」に終るなどは寝覚めの悪い生活であろう。 人間という脊椎動物は社會的だろうが、人間という萬物の靈長は孤往を分とする。 このゆゑに「幽人月づれば每に孤往し」、獨…

『童心殘筆』より

温泉行 都に住む者は確かに時々其の風塵から逃れて雲を仰ぎ森を眺めねばならない。 何百萬という群衆に混じって居るだけで、自分の明徳が灰色にぼやける。 その上に狂の様な自動車や泥鰌のごった返すにも似た電車の混雜、魂の荒んだ人間、化物の様な形の女、…

『童心殘筆』より

津浪 七 火事には我等はそう「滅び」と謂う様な世の相を聯想しないが、津浪の方がまざまざ人間最後の悲劇を味識せしめられる様な気がする。 然しながら此れは實に得難い経験である。 いくら遭いたくても遭うことの出来ない経験である。 この津浪は私に明にそ…

『童心殘筆』より

津浪 六 ところが死骸と思った主人は、倒に宙吊りされると共に夥しく水を吐いて、不思議に息を吹き返した。 彼等は暫くは生きてゐるのか死んでゐるのか、我と我が分らなかった相である。 後で亭主はつくづくと腹の底から絞る様に感歎の聲を洩して私に言った…

『童心殘筆』より

津浪 六 勿論二三度激しく震盪を感じた後、彼等は脆くも気絶して了った。 ふと何かの拍子に息を吹き返した番頭は、闇中朧ろに人家を認めて、あらん限りの聲を絞って救を求めた。 暴風雨の中ながら、其の聲が耳に入ったとみえて、暫て二階から、「縄を下すぞ…

『童心殘筆』より

津浪 六 其中に俄然として落ち来った棟木の為に、忽ち彼は其場に打倒された。 焦っても藻掻いても身体はぴりっとも動かない。 すると向うから一本の柱が自分の方に向って勢猛く突進して来た。 殺られたっと思った瞬間、彼の身体はひょいと浮んだ。 かねて水…

『童心殘筆』より

津浪 六 余り錯愕に彼は起き上る術も忘れた。 すると彼を載せた畳は暫く何處ともなく吹き流されてゐる中、どっと煽った疾風と共に、忽ち海岸の別荘の植込の間に投げこまれた。 それ助かれ! この生命冥加の野郎めがッ、とでも風は怒號したか。 ○ 大通のある…

『童心殘筆』より

津浪 六 船は真一文字にそれに向って進んでゆく。 暫て船頭は其の屋根の棟を割って、其の首を曳き出した首の下にはまだ逞しい胴体も着いて居た。 職工が苦し紛れに天井を破って逃れようとしたのだが、首だけ出て、身体が出ないまゝ、流されたのである。 彼は…

『童心殘筆』より

津浪 五 眞に人間の生命を根柢より却し、その努力になった誇りを蹂躪し去ったのは僅々四時間余りの出来事であった。 去年は大火、今年は津浪、月島という處は何て嫌な處だろうと、會う人毎に語り合いながら、其癖翌る日からもう人々はせっせと其の家を繕った…

『童心殘筆』より

津浪 五 奔流は唯流れに流れる。 時々大きな屋根が漂うてゆく。 太い柱が箭の様に走る。騒ぎの中に夜に入った。 家を失った人々はまた宿りに困った。 あちらこちらの倒れた家の陰から焚火が閃く。 日がとっぷり暮れると、皎々たる明月が澄み渡った空にまるま…

『童心殘筆』より

津浪 五 最後に残った三四人のみが、始めて丁寧な挨拶を交して帰って往っただけで、あれだけ多くの人が私達に一言の挨拶もしないで出て行った。其中でも職人體の二人の男はわざわざ私の書斎を通って其處の鴨居にかゝって居た着物を二人共ひょいと身に纏うて…

『童心殘筆』より

津浪 四 「や、さては彼奴が此れなのか。」私は思わず眼を見張った。私の家の近所に一軒の妾宅が在って、始終色々な人間が通うて来た。そして毎夜、私の読書が佳興に入る頃になると、決ってベンベンと淫猥な三味を弾いて躁ぎ出すのであった。そのたびに、私…

『童心殘筆』より

津浪 四 傍らから女が慄へ聲で訊ねるともなくきいた。 「隣りへ来てらっした日本橋の御隠居さんは如何したでしょうね」 「さ何しろ身體が利かねえんだから仕様がねえ。」 「因果ですね眞實に、月島までわざわざ養生に来て、津浪に遭ふなんて。」 「死にゝ来…

『童心殘筆』より

津浪 四 近所に居た元気な鳶職が、室の隅で濡れそぼちながらぶるぶる慄えて、それでも頓狂な聲を絞って語る。 「野郎如何したかな、餘り醉いやがるもんで、水だと言って引き摺り起したんだが、間誤つく中に箪笥が'002;りけえったんだ。野郎下敷になりやがっ…

『童心殘筆』より

津浪 三 私は慘として眦を決した。壊れ傾いた隣りの屋根を踏んで、六尺餘りの隔たりを女も子供も跳ぶ~。そして私の家の屋根へしがみついて、踉めきながら私の救いの腕に投じると、そのまま彼等は皆腰を抜かして了ふ。荒くれな男も、いたいけな子供も皆あゝ…

『童心殘筆』より

津浪 三 如何にも其の室の窓を何者かゞ亂打して居るのである。私は雨戸を繰ろうと手を掛けたが、こはそも雨風の力で如何しても開かない。一生懸命を罩めて引張って、やっと開いたと思うと間もなく、一團の黒い塊が私の胸に礫の如く飛びついた。それは人間で…

『童心殘筆』より

津浪 二 「丁度満月の大潮の夜だものな……」 母が手探りで蝋燭に火を點けた。室内が朦朧と明る。家財道具が室中に散亂して居る。我等は更に着物を重ねて、互に膝を摺り寄せた。 「近所の方は如何したでしょうね?」 「さー何にも聞こえないな。」 やがて各自…

『童心殘筆』より

津浪 二 其の中に畳や床板がブクブク浮び出したので、私は家人を愈々二階に上げつきりにして、獨り尚家財を物色して居た。水は何處からともなくもの凄く湧き上って来る。愈々危険と見て取って、急いで私も梯子段を駈け上った其の刹那であった、凄まじい音響…

『童心殘筆』より

津浪 二 夜央過ぎ、私は書物を閉じて階下に降りた。玄関を通ると沓脱ぎの邊でドブリドブリと云う変な音が聞える。何だろうと障子を開けて見ると、此は如何に其處に脱いであった下駄が二三足水に浮んで、クルリクルリ廻轉して居る。さては水か、私は急いで次…

『童心殘筆』より

津浪 二 夕餉の後も妙に淋しい沈黙に支配されて、間も無く私は二階の書斎に閉じ籠って了った。ザーッ、ザーッと一風每に猛雨が凄じく雨戸を打つ。家中の戸と謂う戸は一様ゴトン、ガタン、ギーッと無気味な音を立てゝ。其の間から'112;々と虚空に荒ぶ暴風の哮…

『童心殘筆』より

津浪 二 眼を閉じると、私は容易に大正六年九月三十日の暴風雨の夜に返る。其の夜は満月に當って居た。其の前日、波静かな月島湾に臨んでゐる、新な私の家の二階の書斎で、私は来む宵の明月と大潮とを楽しんで、建てた許りの心地好い木の香を懷しみながら、…

『童心殘筆』より

津浪 一 先達て鼠骨翁の病牀を御見舞した時、棚頭の傀儡、一線絶ゆると絶えざるとの境の測り難なさから、話は様々に進んで不圖去る大正六年の秋、月島で遭遇した津浪の経験に及んだ。氏は之に大変興味を惹かれて、其時の舊稿があるまいかとの事で有ったので…

『童心殘筆』より

暁風残月の遊 三 肅々として天地の流れは動く、暁も早近いであろう、私は舷を叩いて拙作の即興詩を低唱した。 人遠く湖玄く山影幽なり 煙波暗き處愁を奈何せん 月傲骨を憐んで詩境を開き 露襟懐を滌うて棹歌發す 星宿森々碧落に懸かり 天風浩々銀河を渡る 五…