いしずえ

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第三章 古代思想

  印度思想-佛教

 仏教とは、仏陀の教えということである。仏陀とは「目覚めた者・覚者」、(悟った人、解脱者)のことであり、人間は全て仏陀になれる道の教えでもある。仏教は今から二千五百年前の頃姓ゴータマ、名シッダッタが(釈迦族の中心地方ガピラ城の領主スッドーダナ王の長子として生れた)開いたものである。

 仏教はウパニシャッド哲学を基礎とし、人生の無常観から発して、涅槃の境地に入ることを理想としたものであるが、その教えはバラモン教に対する革新運動として四姓階級の差別を否定して人間の一切平等を唱え、人間誰でも自己修行によって到達解脱しうるものであるとした。

 釈尊は人生を苦と観、世は幻妾であるとした。

   (43 43' 23)

    

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人類思想の歴史と未来

16、オロゴメ

 藩政時代「馬追(うんまえ)」は年中行事の一つで、最も男性的で勇壯を極めたもので、笠(おろ)山に牧場を作り、平時は「牧司」数名が警戒に当り、毎年一回四月中「卯の日」に仔馬(二才馬)捕りをし、当日は六郷が大小幾多の旗をひるがえし、郷別に円陣をつくり捕手達は大旗小旗を打振り馬をかり立て、かねて設けた「笠」に追い込んで捕えたもので、予定数だけ捕獲したら終りとされ捕えた二才馬は藩庁に送り軍馬に育成された。(上東郷郷士資料による)

 垂水では、柊原上之原から大野原一帯が島津氏の牧場で、野生馬を市木や馬込に追い込んで捕まえていた。これらの行事が子供達に引継がれてきたものが「オロゴメ」の行事である。

「オロゴメ」は旧暦五月五日(現在は新暦月遅れの六月五日)早朝行われる。前日までに海岸に穴を掘り準備しておく。穴は縦横七尺(約二メートル)深さ五尺(約一メートル)の四角形で入口三尺(約一メートル)である。

 当日は午前三時頃から「たいまつ」をともし、ホラ貝を吹いて山に登り一番頂上に陣旗を立てる。陣旗には「子馬ひき出す馬合戦」と書かれ「オヤガシラ」(親馬の意で小学六年生)所有のものである。

 やがて山を下り、海岸に掘った穴のところにいく。「オヤガシラ」は海岸に掘った穴の中に「コガシラ」(子馬の意で小学生以下)を追い込み、外側から耳と足をもって入口から引き出すのである。一方「コガシラ」は白い六尺フンドシ(今はパンツ)一枚の姿で「オヤガシラ」に対して暴れまわるのである。「オヤガシラ」が「コガシラ」を全員穴から引出したとき勝負は終る。

 昔は「オロゴメ」終了後、水之上の子供達とよく竹合戦をしていたらしい。

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14、オンダンコラ

 「オンダンコラ」は新光寺の高岩の下を出たところの小字「小野田」(オンダ)の河原(コラ)である。

 昔新光寺及田川原(オンダンコラ)などに数多くの百姓が居住し、新光寺という寺もあった。白山参り、岳参りにはこの地を通って登り下りして、皆小野田の河原(オンダンコラ)に集まったもので、当日は市や見世物が出たりして大変にぎやかで、人々は一日を楽しんだものである。後世百姓が井川、田畑付近に移って来たので集合地も「田畑の河原」に変ったが、それでも「小野田河原」というようになった。現在河川工事等のため河原の利用ができなくなったため今は水ノ上三和センターに於て木市や演藝大会等が行われている。

「オンダンコラ」でにぎわう四月三日は、白山神社の祭日である。白山神社伊弉諾尊(いざなぎのみこと)伊弉冉尊(いざなみのみこと)の二神が黄泉国(よみのくに)との境にある「よもつひらさか」で争われたとき、その中間に立って両神の神々のおことばをお聞きになり、とりつぎなさった神「菊理姫尊(きくりひめのみこと)」一名白山比羊(ひめ)神で、昔伊地知氏が加賀の白山神社から勧請せられたものだと言われている。

                                     (垂城史談)

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18、十五夜綱引き

 昔は山に「かや引き」に行き、親がとってくれた葛かづらと一緒に綱を編んで、旧暦八月十五日夜綱引きをしたものである。子供達は夏休み中の「かや」のとり高によって賞品などを当日与えられていた。

 「かや引き」は子供達の楽しみの一つでもあったが、子供達の健康上害があり、深夜まで綱編みをしたりするので、学習上にも差し障りがあるということで今では各集落とも「ロープ」や縄で編んだ綱によって代用されるようになってきた。所によって綱引き終了後相撲大会も行っていた。

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19、六月燈

 王子神社の六月燈は旧暦六月十三日王子神社下の海岸に出店が立ち並び非常に盛大で、大人も子供も大変楽しみであった。

 現在は、子供達が夏休みに入ってから行われている。

 馬頭観音の六月燈は、旧暦六月十八日であった。石踊どんの六月燈は今でも石踊一家で行われている。その他◯◯どんの六月燈という様なものも各所で行われていた。

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⑵ 恐怖の大空襲

篠原サチ(上東)

 昭和二十年八月と言いますと私達家族は主人が戦地に行き、私は二歳八ヶ月と一歳足らずの二児を抱えて柊原の実家に帰っておりました。二十年に入ると敵機がしばしば偵察や侵入して来るようになり警戒警報のサイレンが鳴ると何をおいても子供を連れて防空壕へと避難し、警報が解除になれば家に帰ってくる毎日のくり返しでした。

 裏山にはそれぞれ家族毎に無数の防空壕が掘られ、避難場所として大事な家戝道具が入れられておりました。

 私達は裏山に自分の所有地がありましたので一番眺めの良い、日当りの良い場所に防空壕を作ってもらっておりました。他家の人々は所有者から土地を借りて壕を作っておりました。

 八月五日は晴天で朝早くから警戒警報のサイレンが不気味に鳴り響き、かねてと違った状況だったので私達は親子三人と姪の四人で早々と防空壕へ避難していました。十一時過ぎだったと思います、誰かが死物狂いで大きな声で「もう垂水の街は丸焼けだ」と叫びながら坂を走り去って行きました。おそらく上野台地の畑に農作業に出ており垂水の街が焼ける様子が見えて驚いて自分の家に走って帰るところだったと思う。私達がうずくまっていると、しばらくしてから機音が聞えて来たかと思うと小学校の西あたりで航空隊の高射砲がドドンドドンと敵機を射(う)つけたたましい音が絶え間なく聞こえて来ましたのでこのさきどうなることかと抱き合ってひそんでおりました。間もなく戦斗機が低空で物すごい音で柊原全体を襲いかかって来ました。

 そして突然私達の壕の前に爆弾が落ち破裂して大音響と共に火を吐き始め隣りの壕の中が燃え始めました。私達の防空壕は隣の壕とは直径五十糎位の穴で通じる様になっていました。その穴から真赤な炎がゴオッゴオッと音をたててはいってきたかと思ったら、こんどは隣の壕にいた娘さん(十九歳位)が火だるまに燃えながら仰向けに落ちてきました。私は子供と女手ではどうする事も出来ず子ども達を布で包んで山奥の他所の防空壕へと避難しました。時間がどの位過ぎたのかわかりませんが空襲が止んでからもとの避難していた場所に帰ってみると隣りの壕で十人、その隣の壕で七人全員焼死しておりました。私達も最後までそのまま壕の中にいたらどうなっていたことか。子供達も顔は煙で煤けており、ようこそ助かったものと運の強さに嬉び抱き合ったものでした。焼死された娘さん達は当日も早々と避難してきて壕の外で親子四人で仲睦ましく髪のシラミ取りなどして時を過ごされておられた姿が今でも目にやきついて浮んできます。

 私達の壕が眺めや日当りが良い所であったので敵機からも良く見えたので爆弾を落したのであろう、ついさっきまで柊原の人家が密集していた風景は跡形もなく見渡すかぎり黒こげとなり残り火や煙が無数にあがっており無惨な姿は残念で涙さえも出なかった。私の疎開倉庫も全焼し全くの着のみ着のままで幼い二児を抱えて途方にくれました。しかしみんな沢山の人々がこんな状態でありましたので、自分がしっかりしなければと気をとりなおして頑張りました。

 八月十五日は戦争が終ったと人々が話し始めましたが、それはデマで、その人はスパイだと怒る人もおりました。

 やがて終戦となり主人もしばらくしてから帰省し正気は取り戻したものの、これからは衣食住をどうして求めたらよいか前途を考えると不安でなりませんでした。

 戦災からしばらくして柊原では昔も行なわれていた塩田が始まりました。非常に難儀な仕事で私達には無理なことが多くありましたが、只々努力と頑張らなければと自分に言い聞かせて辛抱しました。塩が唯一の頼みの綱でした。肝付方面や県内に塩をかついで行き麦やからいもなどの食糧や衣類と交換して帰ってくる毎日でした。

 遠く北九州あたりまで行って当時取り締りの厳しかった米などと交換し、法の裏をくぐって運んで来たりしました。本当に柊原の人々は塩が命をつないで生きてきました。戦争は遠くの外地で兵隊さんがするものと思っていましたが実際にこの地でこの目で殺傷の悲惨さを見たり恐ろしい体験をすることは私だけでもう十分です。これから戦争のない平和な国がいついつまでも続くよう祈る心で一杯です。

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第二章 思想の源流

 古代文化思想は、ギリシャ、印度、中国、ユダヤにしても戦乱若しくは社会混乱の時代に起こったものである。何れも紀元前六世紀(二六〇〇年)から前四世紀(二四〇〇年)にかけて、優れた思想家が輩出した時代であった。人類はこの時代に世界観人生観の探究に目醒めたのである。

 印度では、ウパニシャッドの哲学をはじめ、唯物論、宿命論、道徳否定論、懐疑論ジャイナ教バラモン教、仏教が現れた。

 ギリシャでは、ミレトス派をはじめ、ピタゴラスヘラクレイトス、エレア派、アナクサゴラス、ソクラテスデモクリトスプラトンアリストテレスが登場した。

 中国では孔子老子荘子墨子孟子荀子韓非子などの諸子が輩出している。

 ユダヤでは旧約聖書の作者等である。

 日本は古事記の創作者がそれである。

 最も旧い文化の創造物のエジプト、メソポタミア及び中央アジアは滅びその流れを後世に伝へ遺され何らかの形で生きていることは事実である。

 印度のガンジス河流域、ギリシャ半島を中心とする地中海域及び中国の黄河下流地域は、いずれもユーラシア大陸の緑辺地域(フリンジランド)である。同じ地域であっても五千年以前から都市文明のメソポタミア(ペルシア)やエジプトに比べれば後進地域である。おそらくこの文明の影響を受けたものと思われる。

 印度・ギリシャ・中国における後進文明国は精神文化を遂行する上において恵まれた絛件下にあった。生産力の上昇と共に都市国家は繁栄し、伝統に縛られぬ個人が創意をめぐらし實力の時代とな興ってはる。従来の伝統や習慣はたえず崩れる(無思想の集団生活は栄えては亡び、興っては滅ぶ)それは成長と発展の時代である。都市国家の連合が求められ、また一度成立した連合体も、そのままの形では維持することができない。より強力な広範囲の結合が求められ、統一的領土国家が要請されてくる。それは印度においてもギリシャにおいても中国においても、そういう過度期の混乱の時代であった。人々は新しい方途を求め世界と人生とに新しい設計図を求めた時代である。この要請に應へたのが印度に於いては仏教であり、ギリシャに於いてはヘレニズム思想であり、中国に於いては孔子による儒教である。

 思想家たちの頭に描かれた設計図は、大規模な実現の端緒を得たのであった。国家経綸の政治経済政策の文化理念として、また人民の生活の指針と規律として希望と満足とを与えたのであった。人類はこうして都市国家時代から民族領土国家の時代を迎えたのである。二千五百年前にアケメネス朝のペルシャ帝国が唯一であったが、二百年おくれた印度のマウリア帝国、ギリシャではアレクサンドロス以後のヘレニズム国家、中国では秦の漢帝国が成立した。

 そしてこれらの国家は相互に接触を深め、また周辺の民族を併合し、超民族的世界国家形成の道を歩んだのである。印度に於いては一世紀以降クシアーナ王朝及び四世紀以降グブタ王朝帝国、ヨーロッパに於いては前一世紀以降のローマ帝国、中国に於いては隋、唐帝国中央アジア・アラビアに於いてはダマスコのウヤイヤド、カリフ帝国、バクダットのアバシド・カリフ帝国の形成と展開等いづれも超民族的世界国家形成への道を歩み出したのである。

 この時代に印度では大乗仏教が成立し、中央アジアを経て中国の隋、唐時代に中国仏教を成立せしめそれが儒学に影響を与えて朱子学陽明学を生んだのである。ローマ帝国に於いてはキリスト教が成立し、やがてローマの国教となり、ローマの属州であったヨーロッパに伝えられたのである。仏教もキリスト教イスラム教も、いづれも普遍的な人類の普遍的國際宗教として形成されたものであり、前代までの知的探求の成果を摂取し、またそれ自信のうちに知的探求の営みを営んでいるのである。

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人類思想の歴史と未来