いしずえ

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第五章 近代思想

 民主主義

 ホップス
 十七世紀イギリスのホップスは利己心は在来の倫理では悪とされたが、ホップスは利己心を善でもなければ悪でもないとした。人間は心身の能力において生まれつき平等である故、人間が利己心によって、相互に戦い、相互に欺きあい、残忍なやり方で生活しているのは、人間の自然状態であって、自然的事実として認められるべきである。しかしこのような状態は絶えざる恐怖と暴力により死の危険があり、人間の生活は、孤独で貧しく険悪で残忍で、しかも短い。そこで人々は平和を求め、理性により、相互に協定して、共同社会をつくるように導かれ、こうして国家をつくる。国家とは、このような人工的作品であるという。このホップスの契約国家説である。個人が国家の主体であって、これらの主体の相互契約により国家が成立するという考えである。そして、この目的を達成するには各人が、その全権利を一人の主権者に委託するのが最も便宜であると君主政治を認めた。彼は近代民主主義の草分けである。
 この思想を更に発展させ深めたのがロックとルソーである。また論理的に明確化したのはカントである。

 イギリス人、ロック
 彼は「民政論」を著し、政府は人民と統治者との契約によって成立したものであるから、統治者が契約を履行しない場合には、革命は正当であるばかりでなく、望ましいものであると唱え、民主主義を代弁し、帝王神權説を否定して主權在民を唱導し、近世ヨーロッパ啓蒙思想の父と謳われた。ラスキ・ラッサールの国家論も同じく契約論である。

 フランス人、ルソー
 十八世紀最大の思想家の一人である。彼は「民約論」を著し、多くの人々に多大の影響を与えた。民約論は、政治に対する理想を説いたものである。社会は元来各人相互の契約によって成り立ったもので、各人は互いに自由平等であった。然るに強者が出て恣に法律を作って弱者に圧迫を加えたので、不自由、不平等なものと化した。それ故に現時の社会を覆して、自由平等な原始自然の状態に復帰することが必要である。また地球上の統治者は、人民の単なる代理者であるから、万一人民がその政府統治者を好まない時には、これを変更し、若くはこれを廃滅する権利がある。私利と私心に基くものは、たとえ「全員の意思」でも、公共利益への志向によってのみ成立する「一般意思」(普遍意思)とはならない。所謂、與論にはならない。民主政治の理想が完全に実現される社会は、ただ神のみから成っている社会であろう。ここに民主政治にとって教育が絶大な重要性を持つことになるのである。

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第五章 近代思想

 十八世紀 民主主義・合理主義

 この世紀には、感情的人間観が成立した。人間の人間たる本性は感情にあるとする人間観である。十世紀において理性によって感情を規制するところに、人間の人間たる所以があると考えられたに対し、十八世紀においては、人情味、親切さ、親しみにあるとするところに、人間らしいことであり、ここにヒューマニティが博愛・人道・仁愛を意味することになった。

 十七世紀の理想的人間観は天上の神によって与えられたものであって、感情は人間の地上性をあらわすものと考えるキリスト教の神学的人間観が前提にされていたことを物語るものであるが、これに対して人間の人間たる所以を感情に認めるということは、地上的存在者としての人間存在の主張が、一歩前進したことを物語るものである。

 カント
 十八世紀カント以降ドイツ理想主義哲学によって十七世紀的理性的人間観と十八世紀的感情的人間観との根底にあるものは、意志的努力—行動的人間であることが明らかにせられた。カントは行動的人間を実践理性の要請として自由であると表明された。

 ゲーテ
 人間は努力する限り、たえず迷うものであるが、また努力する限り、必ず救われるという人間観を表明した。ゲーテ新約聖書ヨハネ伝に「始めにロゴスあり、ロゴスは神と共にあり、ロゴスは神なりき」のロゴスをドイツ語で何んと訳したか「行」と訳し「行動的人間」に達した。そしてその「行動的人間」観は「自由」に求めたのである。

 フィヒテ
 彼はゲーテの解釋を自己の哲学に「事行」に捉え、無限に努力する行動的自我の哲学を展開した。フィヒテはカントの理性哲学を意志的行動的人間の哲学として発展させることを意図したのである。

 ヘーゲル
 行動的人間の論理を自覚化して弁証法論理—「精神」として主体の自己運動の論理とした。客体的自然の障害を克服して無限に努力する主体的人間精神の哲学を展開した。フィヒテの哲学を更に発展させたのがシェリングである。—無限に努力する行動の主体は、客体として現われてくる障害・抵抗を絶えず克服して進まねばならないが、この限り、それは永遠に達せられることはない—シェリングは主体と客体とは対立するが、芸術的直観においては、主客は統一せられる。又自然界と人間界は、客体的自然と主体的人間精神との根源的統一が存するという。これがシェアリングの「同一性哲学」である。
 このシェリングフィヒテの立場を総合したのがヘーゲルである。フィヒテは主客は対立すると強調するに比し、シェアリングは主体と客体との統一を強調する。ヘーゲルは、真実には対立と統一との統一でなくてはならぬ。これが眞実在である。実在は静止的でなく、活動的なものである。これを運動の過程としてみると、第一段階は、主体も客体も区別されない根源的な統一の段階である。第二段階は、この統一が分裂して主体と客体とが対立し矛盾が成立する段階である。第三段階は、対立した主体と客体とが統一され矛盾が克服される段階である。この第一段階を「即目的」と呼び、第二段階を「対目的」と呼び、第三段階を「即自且対目的」と呼んだ。第三段階は、第一段階と第二段階との総合である。ヘーゼルは自然界と人間界の一切に、その三段階の発展をみとめた。その発展が弁証法的発展であり、この発展の論理が弁証法的論理である。
 ドイツの理想主義時代にイギリスでは産業革命が進行し、フランスでは政治革命が起こった時代である。「自由・平等・博愛」の理想が、全ヨーロッパの国々の人心を強く捉えた時代である。

   (43 43' 23)

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第五章 近代思想

 十七世紀 人間尊重

 デカルト このルネサンスヒューマニズム運動と宗教改革運動とによって、西欧人は、古代文化の教養人的人間像と原始キリスト教の信仰者的人間像を、自己のものとし、自己の進むべき道を模索しつつ十七世紀以降、本格的に、独自の文明の形成に入ったのである。十七世紀に明確となったのは、理性的人間観である。人間の人間たる所以は理性を持っていることにある。理性は自然界の理法を、すべて明確に把握することができる。とフランスのデカルトは、この理性により自然界の一切を機械的に説明できると考えた。によってデカルトは物体と精神との二元論を成り立て、物体は縱横幅の三次元の場(ひろがり)を本性とするものであるとし、自然的物体から生命的精神をすべて剝奪した。物体は「外からの影響ない限り、その運動または靜止の状態を持続するという慣性の法則によって支配される死せるものとなり物体現象は、すべて数学により規定できるものとされた。世紀末に微分計算法が発明され、自然法則は微分方程式によって精密に記述しうることが示された。それがニュートンである。

 ニュートン
 彼はデカルトの合理主義に経験による制限を加え、有限な人間の理性は、経験と共に歩まねばならない。これがニュートンの経驗的方法である。これによって近代科学としての数学的自然科学の軌道が設定された。そしてこの方法は、十八世紀以降あらゆる学問の分野に適用され、あらゆる学問を、近代科学に転換させる起点ともなり動員ともなったのである。

   (43 43' 23)

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#十七世紀

        

第五章 近代思想

 十六世紀

 ルネサンスに始まる。宗教改革を端緒としてルネサンス運動が起った。ルネサンス運動は八世紀から十二世紀に至る長い準備期間を経て十三世紀以降その文明形成に入った。十四世紀から十六世紀に至る思想で特に注目すべきものは二つある。一つはイタリアに発したミランドラーの人間中心(ルネサンスヒューマニズム)運動と、もう一つはドイツに起こったルーテルの神中心主義(出来る限り人間の自由)の宗教改革運動である。やがてこの二つは燎原の火の如く全欧に燃えあがった。
 ルネサンス運動とは、古代ギリシャ・ローマの教養人が、如何に生活したかを復活しようとするところから始まり、やがて、あらゆる人間の能力を開発した人間万能を理想的人間像とする運動である。レオナルド・ダ・ビンチは、その典型的具現者であると謂えよう。ミランドラーは人間中心主義を成り立て、神を人間生存の手段として取入れた。これが近代文明の本流となったのである。これに比し宗教改革運動は、現カトリック教会を超え、本来のキリスト教の信仰を取戻そうとする運動であった。当時のカトリック教会は、地上における權力体制として世俗化されており、免罪符を発行するなど本来のキリスト教から逸脱したものであった。これに抗議抵抗(プロテスト)したのがドイツのルッターである。ルッターの思想は神中心主義であるが人間は可能的無限に自由でなければならないというものであった。このルッターのプロテスタンティズム運動を受けてカルヴァンはスイスで教会の組織・制度・法規・儀式・慣習の改革を試みた。彼は、神の救いは、神父僧侶に関わりなく、どのような世俗の人間もすべて神のお思召しである。人はその与えられた職業に勵むことによって得た利得は神からの贈り物である。人が神の救いに選ばれているか否かは、自己の職業に精出し誠実に努め自証する以外にない。彼は禁欲的な自立的倫理の厳しさを体現し人間像を生み出したのであった。これが十六世紀後半にオランダに齎され、カトリック教国スペインの絶対主義権力に反抗してオランダの独立を勝ち取った精神的原動力となった。またイギリスに導入されてピュアリタニズムとなり、十七世紀市民革命(清教徒)の精神的起動となったのであった。またイギリスに導入されてピュアリタニズムとなり、十七世紀市民革命(清教徒)の精神的起動となったのであった。

   (43 43' 23)

        

第五章 近代思想

 二十世紀の現代、人類は国際社会が世界的規模において現実に実現されようとしている。これ迄に超民族的大帝国が二千五百年前にペルシャ帝国を初めとし、ギリシャ帝国、続いてローマ帝国、印度クシアナ及ゲプタ帝国、中国帝國、中央アジアのサラセン帝国、蒙古帝国など成立したが、全世界的なものまでには至らなかった。しかし、それが二十世紀末の現代に於て実現されようとしている。
 従来までの世界帝国は主として「武力権力財力」と法律制度の力をもって、外方より締めつける手段を用い統一を計って来た。この力の統治結束には限度がある。領土の拡大に伴って内部の結束が乱れるからである。然るに今日現実的に達成されつつある全世界的国際社会は、宗教や支配的権力武力財力ではなくて、物質文明の自然科学、機械、技術である。これを発明創造したものは、曾てローマ帝国の辺境の植民地であったヨーロッパである。この狭小な地域に十三世紀以降、新しい知性の動きが見られ、ルネサンスを経て全人類にその影響を及ぼし、地球世界は正に統一されようとしている。この新しい思想による世界と人生との設計図は、ギリシャ思想とキリスト教との結合からつくり出されたものである。それは恰も日本にとって中国思想の儒教と印度思想の仏教との結合によって生み出された近代日本と同じ意味をもっている。
 近代思想の発生は中世紀の間永く教会によって束縛されていた人間精神が解放され、人々はここに始めて周囲の自然や事物の本質を有りの侭に観察し認識することが可能となった。この人文主義の発展は教育の方面に多大の影響を及ぼし、大学において從来尊重されていた神学法学の研究の外数学、物理学が重視されるようになった。ようやく科学技術の発達を促す諸種の発明が行われ世態を一変させた。かくしてポーランドコペルニクス(一四七三)地動説、イギリス人ベーコン(一五六一)、フランスのデカルト等が現れ科学精神の二側面が大いに発展することとなった。

   (43 43' 23)

        

第四章 中世の思想

 中世の儒教

 後漢に仏教が伝来し老壮の思想は晋の清談を生み、別に道教が生まれ、いわゆる六朝には道仏の二教の隆盛と抗争が著しかった。この道学が新儒教として立ちあがった。道学は道教仏教を排斥し、天地万物の本源を大極といゝ、それには動と静二つの活動力があり、そこから陰陽の二気が生まれ、分れて木火土金水の五行となる。人間はこの五行の精の集りであり、仁義礼智信の五性を持っている。五性が外物と接すると善悪の差を生ずる。聖人はそのために中正仁義を立てて正善に復せしめるのだ。
 中世儒教の枠は朱子学陽明学である。これは仏教の影響を受けて儒仏を融合したものである。朱子は二程子の思想を受け、易本義・詩書集註は彼の真髄を表している。また四書の制定は彼の名を不朽ならしめていると同時に、これより以後儒学を学ぶもの四書集註を必ず研究することゝなった。理気二元論を著わし、理と気とは二物である。理は形而上の道で生物の本であり、気は形而下の器で生物の具であるとして人の生まるゝや必ずこの理を受けてその後に性を有し、必ずこの気を受けてその後に形を有するというのである。心を人心と道心にわけ、それを人欲と天理に区分しており、そこに復性復初の説を立てゝいる。学者は居敬と窮理の二事のみである。朱子は禅的な修行とたゆまざる真理の追究を力説した。彼の格物致知の説は後世儒学の宿題となった。彼は経験と学問と敬を尊び実践を重んじた。王陽明は、朱子に対立し、直覚・徳性・静を尊んだ陸象山に師事し、知行合一の説を打立てた。彼は独自な実践主義を成り立てたのである。知行合一致良知の説は斯学の中心である。彼は知を軽んじ、行を重んじたところに特色があり、その行の工夫は頗る禅的であって心学と称せられた。格物到知とは、事物の理を窮め我が知を致し極ること。致良知とは、物事の道理を通暁し、良知をして欠陥なからしめること。

   (43 43' 23)

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第四章 中世の思想

 中世の仏教

 釈尊の歿後紀元前三世紀のマウリア王朝のアショーカ王の時代に王の支持を受けて仏教は全印度に普及し、仏教教団の発展は、保守的正統派の上座部と進歩的改革派の大衆部との分裂を招き更に両部とも細分裂した。それは釈尊の教え、教典の解釈と整理がそうさせたのである。
 上座部系統の仏教は早くも紀元前三世紀にセイロンに伝えられ、その後東南アジア、ビルマ、タイ、カンボジアベトナムに伝えられ、今日に至った。
 釈尊は「真理の法の世界は、この現実の世界を離れてあるのではない。現実の世界が眞理そのものである(色即是空・空即是色)。これが釈尊の眞の教えである。仏陀とは眞理を悟った者であり、その体現者である。仏陀は無限の慈悲をそなえ、すべての衆生を済度する。自己が救われると共に他人を救わねばならぬ、このような利他的行為をする人を「菩薩」と呼ばれる。菩薩行は凡人には至難なことであるから、具体的に諸仏諸菩薩に帰依し、その力によって実践を行うべきことが説かれ、諸仏諸菩薩の信仰が高まると共に多数の仏像や菩薩像が作られるに至った。これが大衆仏教運動の始りである。在来の出家教団の仏教を「小乗」と呼び区別した。大乗仏教は、クシアーナ帝国時代、ギリシャ、オリエント、印度の諸文化の混合折衷の国際文化社会で、自由で順応性に富んだ普遍的世界宗教として発した。四世紀以降のゲブタ朝及び七世紀のハルシア王の時代にかけて、大乗仏教は大いに発展したが、その後印度文化の停滞期を迎えると共に仏教も衰退し、やがてマホメット教の侵入によって印度では姿を消すことになった。仏教が中国に入ったのは紀元第一世紀の頃であり、唐の時代には独自の中国大乗仏教を展開した。この中国仏教が朝鮮を経て紀元六世紀以降(印度から姿を消した頃)日本に導入され、奈良天平時代、平安朝時代を経て鎌倉時代に我が国の思想として定着し、日本文化を培ったのである。

   (43 43' 23)