いしずえ

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第三章 古代思想

  ユダヤ思想-旧約聖書

 キリスト教の生みの親はユダヤ教である。それは旧約聖書に記載されているところであり、本来旧約は古代に属するが、中世に開花躍動するキリスト教と不離不可分の関係があるので中世に纏めて説くことにした。

 ユダヤ人は古代に於いて四度エジプト、バビロニアアッシリア、ローマの異邦人、他民族の奴隷にされた。その期間実に一千年(四千年前-三千年前)に及ぶ、後、紀元前数年前の頃ローマ帝国に滅され爾来約二千年の久しい間亡国流浪の生活を続けて来た人類史上例を見ない悲惨な民族である。有史四千年のうち奴隷千年、流浪四散の旅を二千年つづけて来た民族である。この異常な辛苦艱難な生活体験が却って内面的な精神的鍛練訓練を重ね、民族的団結を強化し、共同体性を深め神との契約意識を生じ、神への絶対信仰をつくりあげたのである。

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第三章 古代思想

  プラトン

 ソクラテスの死は弟子プラトンの生涯を決定した。アテネの名門の生まれである彼はやがてアテネの政治指導者の一人となるべき人であったが、傾倒し私淑した、師ソクラテスを祖国アテネが処刑するに及んで政界への望みを断念し、青年たちを教育して次第に望みを托するようになった。前三八七年プラトン四十歳の時ピュタゴラス学園(アカデモス)の組織を参考にして、一つの学園を創設し、ここで以後四十年間教育と研究に生涯をささげた。

 プラトンは師ソクラテス及先師ピュタゴラスイデアまたエイドスを更に発展させたものと考えられる。善とは何か、美とは何か、正しいとは何か。美とは、正とは、善(よさ)とは感覚的なものと、それ自体と二つが考えられる。それ自体がイデアでありエイドスである。感覚的な美は、美自体のイデアがそこに興り、あるからである。

イデアまたはエイドスは感覚的なものの原因であり手本であって感覚的な美はその模倣模写である。イデアやエイドスは超感覚的不可視のものである。感覚的美は生成消滅するが、美自体のイデアやエイドスは、決して消滅しない。永遠に不滅である。本当の美しいもの正しいもの善いものは唯一つしかない。それは常に自己同一のものである。

 イデアの世界は一つしかない。正義のイデア、勇気のイデアは数多くある。感覚的正義感覚的勇気があるのはイデアがそこに含まれているからである。イデアの理想イデアを模倣した行為であるからである。こうしてプラトンは、生成消滅する多様な感覚的世界に対して不変恒常の超感覚的世界、即ちイデアの眞実有の世界を高く掲げたのである。

—―眞実有のイデアは肉眼では見られないもの、唯思惟(理性的認識)せられ、うるものである。—―アガトン(善)のイデアは更に真実有認識することができるのも、善のイデアによる。それは恰も太陽が照らしていることによって私たちの肉眼に感覚的事物の世界が見えるのと同様に、善のイデアに照らされて、私たちの理性的認識は、イデアを認識することができるのである。太陽が万物を育成すると同様に、善のイデアは諸々のイデアイデアたらしめる原因である。

 人間の霊魂は本来イデアの世界に住み、イデアを眺めていたのであるが、現世に生まれて来て肉体をうると共に、すべてイデアを忘れた。イデアの認識とは、この忘れたものを想い出すことなのである。—―真理であることを知ることによって真理であるのではなく、永遠の昔から真理であったことを判るということである。それが真理を想い出すということである。イデアを想い慕い求める「愛慕」を哲学というのである。

 このようにして人間の霊魂は、一方では、イデアの実有の世界に、他方では、感性的な自然界に属している。イデアに向う部分は理性と呼ばれ、肉体に繫がれた部分は、二つに分かれ、上位の気概と下位の情欲に分かれる。これ霊魂の三分説である。—―理性の徳は知恵であり気概の徳は勇気であり、情欲の徳は節制である。霊魂の三部分が、それぞれ徳を実現し、調和が成り立つことが「正義」と呼ばれる。これがプラトンの四元徳(知恵、勇気、節制、正義)説である。

 国家においても第一、知恵を愛する理性的な人々からなる哲人(統治者)があって、立法を司り、国家を統治する。第二、名誉を愛する気概ある人々からなる守護階級があって哲人の統治に従いつつ官史として國法を執行し、軍人として国家の安全を守る。第三、利益を求める情欲的な人々からなる「栄養階級」があって、農民職人工人商人として国家の生活のための需要を充す。

そしてそれぞれの徳は、知恵、気概、節制であり、それぞれの徳を実現し、国家全体の調和を計ることが国家の徳であってこれが正義である。これがプラトンの理想国家の思想哲人政治である。

 国家が乱れ対立相剋するのは指導者(哲人)なく、気概(勇気)なく情欲(節制)なく正義の徳がないからである。

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第三章 古代思想

  ソクラテス

 ペロポンネーソス戦争に三度従軍し、よきアテネ市民としての義務を果している。この戦争に於て彼はあらゆる困難に耐え、最も勇敢に戦い最高の勇士として賞讃を受けた。彼は当時のアテネで学び得る知識を吸収した。当時の自然学に通じピュタゴラス派の人々と交友があり、ソフィスト学者等とも親しかった。宗教(オルプエウス)にも関心を有つ、特に霊魂観に強い感銘を受けた。且つ神霊者でもあった。

また時折忘我脱魂の深い瞑想に陥る特異の性格の人でもあった。敬虔にして謙譲であったソクラテスは神の託宣に驚き、当時賢者として評判の高い人々を訪ね問答を試みたが、賢者たちは問い詰められ、返答に詰まり、真実の知を持っているわけではないこと、また無知であることを自覚していないことを知った。

ソクラテスは、自らが無知であることをよく知っており、この点が神託で最高の賢者であるといわれたのである。以来彼は神意の命ずるまま人々の無知を暴露し、真実の知恵を愛し求めるよう人々を誘うことを使命とするに至った。ソクラテスは知者と愛知者(哲人哲学者)を区別した。当代の知識は真実の知識ではない。これらの知識は個人の栄達や富貴であり国家の経済的繁栄や軍事的強盛であって、それは単に個人のもの国家のものであるに過ぎない。

而し真実の知識は個人そのもの国家そのものが真によくあることを目指すものでなければならない。財産や栄誉や権勢のことを思うことなく、むしろ知恵と心理を愛し求め、魂をできるだけ浄らかにすることを、配慮しなければならぬ。個人及国家の富貴及び幸福は徳(アレテー)から生ずるものである。アレテーとは、すべて、ものがその固有の働きを、よく果す卓越さである。

 霊魂も固有の働きを持っている。その働きを美事に果すことによって、霊魂は幸福であることができる。霊魂の固有の働きは、生きることである。霊魂が、よくあるようにとは、よく生きるように、ということである。よく生きるとは美しく生きるということである。それでは美しいとか正しいとか、というのは何か。よさとは何か。これを知るのが知恵(ソフィア)であり、こういう知恵を愛し求めることが、哲学(フィロソフィア)である。

 ソクラテスの言行は、腐敗堕落していたアテネの政治に対する鋭い批判であったため、前三九九年告発され死刑に処せられた。脱獄することもできたし、友人もそれを勧めたが彼は国法に従って死ぬ方が国法を犯して恥を忍んで生きるよりも死ぬ方が優っているといって法に從い死についたのである。

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第三章 古代思想

  ギリシャ思想

 紀元前六世紀(二六〇〇年前)のギリシャ都市国家は繁栄し、地中海の全域に亘ってギリシャ人の活動が展開されるに至った。古くからの家柄、門閥、格式が崩れ、実力能力あるものが現れ、実力本位の時代となっていた。ところが、その行過ぎは利己心の無制限の発揮となり、到るところで社会的害悪を生み出すようになってきていた。そこで多くの指導者、賢者が現れて世の指導に当たっていた。これらの賢者たちは「七賢人」と呼ばれる。その代表がアテネのソローン、ミレトスのタレースであるが晩年にピュタゴラスが現れた。その頃東方のペルシア帝国がにわかに強大となり、小アジアは攻略され、この地の中心部ミレトスも陥落した。ピュタゴラス小アジア沿岸のサモス島に生れ、南イタリアに赴き、そこで宗教ピュタゴラス教団を組織し指導した。

 ピュタゴラス
 彼はオルプェウスの宗教運動から霊感を受け、霊魂輪廻説に基き、厳しい戒律を定め禁欲生活を送った。この教団の特徴は音楽と数学の研究であった。それが霊魂にとって最上の浄めを意味した。ピュタゴラス教団において純粋数学の解明は神の名に於て与えられ、その解放が発見された時には、神前において感謝の儀式が行われたのであった。ここに純粋数学への道が開かれたわけである。

 また音楽は霊魂を浄めるが、音と音との調和は、弦の長さが2:1(オクターヴ)、3:2(五度)、4:3(四度)のような整数の比にあるとき成り立つ。音程理論において、音楽と数学とは結ばれる。宇宙をコスモスといったのはピュタゴラスである。宇宙は美しく秩序づけられた調和の組織であって数的比例に基づいている。これが天体の音楽の思想である。このように教団は宗教団体であると同時に、純粋数学や音程理論を研究する学術研究団体でもあった。更に新しく創始された禁欲的生活新條の故に、これがギリシャの新しい政治運動の中心団体ともなった。この教団は、民主主義運動団体との間に至るところで政争を巻き起こした。彼は民主主義から生れた個人主義をどうしたら社会共同体に結びあわせ、生活を簡素・強健にするかにあった。この流れからやがてソクラテスプラトン等が輩出したのである。

 ピュタゴラスによって哲学、数学、政治が大いに開かれ深められたのである。この間にあって前六世紀後半ペルシア帝国は東方のバビロニアを征服しエジプトをも攻略し、西はエーゲ海からアフガニスタン及び印度の国境まで、北はカスピ海からアジアのヤクサルテス河畔から南はアラビアに亘る強大な大帝国となった。かくて前五世紀の初めギリシャに軍を三度送り一度はアテネを攻略したがサラミス湾の海戦においてアテネの艦隊に撃破された。ギリシャの各都市国家は同盟を組織し、ペルシアの野望を挫折せしめた。以来アテネが中心となりペリクレスの指導の下に政治経済学問芸術を盛んにギリシャ文化の黄金時代を迎えた。アテネの文化特に民主制が普及するにつれ、やがて都市国家の枠を逸脱するような個人的利己主義や党派的権力主義を生み出した。また学者たちも互にその手腕を競いその教える学術も黒を白と言いくるめる詭弁が横行し利己主義と権力主義に奉仕する有効な手段となった。ギリシャ民族はここで強力な統一体制を作り上げなければならなかったにも拘らす、徒らに権力的支配体制を強化し同盟諸都市の隷属化を強制するのみで少しも実現されなかった。それは民主主義という多元的分裂のためであった。すべてのギリシャ人共通の願望は同盟の結果でありながら、それは殆んど不可能とも見得る難事であった。そうした状態のところにスパルタという強力な敵が現れペロポンネーソス戦争がおこり敗北するという結果となって没落への第一歩を踏み出したのである。

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第三章 古代思想

  中国思想儒教道教

 儒教とは儒者の教のことである。儒とは潤す徳化浸潤することをいい、また儒は柔、優で人を安んじ心服させるという意味である。孔子をもってその祖となし、孔子春秋時代約二五〇〇年前の頃のすぐれた指導者(思想家哲学者)として多くの門人を育成し、門人の多くは仕官し為政者として活動し、傍ら多数の弟子を育成して世に孔子の教義を傳道した。儒者儀礼の祭祀を司り指導に当り、民間にあっては礼儀作法の教育に当たった。孔子は礼儀作法ばかりでない修己治人の道を講じ自己完成して君子となり、人に徳行を及すことをした。儒教は倫理道徳的宗教、または宗教的政治倫理であり、政治哲学思想でもある。いわゆる修身斉家治国平天下の教義であるといえよう。その教典は、四書(論語孟子、中庸、大学)五経詩経書経易経礼経春秋経)ー「陰陽五行ー仁義礼智信」であるとされている。

 孔子の時代は周の王朝が衰微し、その威令天下に行われず、礼楽はすたれていた。孔子は周の王朝創業の周公を尊敬し、周公の定めた礼楽を漢賞してその遺訓を学びこれを弟子等に教えた。孔子の教は君子の道である。君子とは群の意である。宗室の大祭宗廟に参列し居列(なら)ぶ者(貴族、賢臣、賢人)をいう。世の指導者及び為政者をいうのである。孔子は先人を尋ね習い、学び、創造工夫を凝らして理想的人間像を形成した。「古きを温ねて新しきを知る」「逑べて作らず、信じて古を好む」殊更に創造するよりも、古を好み求めて、そこに全人間的教養を身につけ、正しい理想的人間形成を追求し、人間像の典型を造形した。これによって門閥地位、身分、家柄、人種をこえて普遍的人間の共同社会を建設しようと望んだのである。その理想的人間像とは「仁」である。仁とは心の徳、愛情の理、忠恕-「己の欲せざるところを他に施す勿れ」「自分を立てたい時には、まず他者を立てる。自分が得たい時にはまず他者に得させる」「己に克ちて礼に復るを仁と為す。一日己に克ちて礼に復れば、天下人に帰す。仁を為すは己による。而して人に由らんや。自己のわがままな我意を抑え、これに打ち勝つことなしには、人に対して「己の眞心(忠)をつくすこともなく、また人と交わって「偽りの(信)ないこともあり得ぬ。人に対する思いやり(怒)も、父子の情(孝)も兄弟姉妹の情(悌)も己に克つことなしにはあり得ない。

 人間誰でも豊かな財産、高い地位、名誉、強い権勢を欲するものであるが、正しいあり方で手にするものでなければ、たとえ手にしても、そこに居るわけにはいかぬ。また貧乏と下積みとは誰しも嫌なものであるが正しいあり方でないなら、そうなっても、それから逃げ出すことはできないものである。凡そ人間たるもの、仁を離れて人間に価しない。人間は食事の間も仁を離れることなく、どんなに慌ただしい時でも必ずこれを離れず、また躓いて倒れるような時でも必ず、ここを離れないようにするのだ」

 孔子は「人にして仁あらずんば、礼をいかにせん。人にして仁あらずんば、楽をいかにせん。礼も楽も仁なくしては、何にもならぬ。—— 仁の実践について「礼にあらざれば視ること勿れ。礼にあらざれば聴くこと勿れ、礼に非らざれば言うこと勿れ。礼にあらざれば動くこと勿れ。」(顔渕)また仁と知に関して「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き仁者は静かなり。知者は楽しみ、仁者は寿(いのちなが)し」(雍也)仁は知と離れて成立せぬ。「仁を好んで学を好まざれば、その蔽や愚」(陽貨)「知、これに及ぶも、仁これを守るに能わざれば、これを得ると雖も、必ずこれを失う」(衛霊公)知も仁によらなければ、知たることができない。

 政治に関して孔子は「民は由らしむべし、知らしむべからず」(泰伯)為政者は人民に信頼されるようでなければならない。しかし人民に必要以上知らしてはならない。政治は指導者のものであって愚民のものではない。指導者の居ない政治は衆愚政治となる。教育の普及ない当時において法令や公布の理由を判らせることはできない。教育が先決であると考えたのである。また政治の基本は「食物を増やし、軍備の充実を計り、人民に信あらしめる」(子貢)その三つの中から一つを捨てるとしたら何を先にするや、「軍備を捨てる」残りの二つの中から一つを捨てるとしたら何を捨てるや「食物である」人民に信頼なくなったらもはや立ちゆかぬ。軍備縮小、経済繫栄はなくとも、人民に信頼がある限り亡国はないが、信頼(倫理道徳)がなくなれば人類は滅亡する。

 また孔子は「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」「志士仁人は、生を求めて仁を害することなく、身を殺して仁をなすことあり」と生命懸けで理想を追求すべきである。またその人となりては「憤りを発しては食を忘れ、楽しみては以て憂を忘れ、老いの将に至らんとするを知らぬ」ような人である。

 孔子は「論語」曽子(大学)子思(中庸)孟子孟子孔子の弟子顔回その弟子の子夏その弟子の子思は中庸を著わし「天命之を性といひ、性を率ふ之を道といひ、道を修む、之を教という。」曽子は大学を著わし「修身、斉家、治國、天平下」の道を明らかにした。孟子孟子の思想をまとめ孟子となし、仁に加えるに義を成り立て王道と覇道を論証し、性善説及び革命思想(民主主義)を講じた。これに対し荀子性悪説を称え始皇帝の宰相季斯の権力、韓非子の法治説に影響を与えた。

 儒教の特色は「教え」にある。道を教え道を学ぶにあって、抽象的概念(理論)を確立することでなく道を実現するものとしての具体的人格の修行である。故に師について学び教えを受け、その人格を体現するにある。常にこれを主体化して人倫の常経を体認した聖人君子の人格に求めて来た。道を求める者は先ず師につき、聖賢の書を読み、君子の心を体することを條件とした。故に師たる者は何よりも人に仰がれる人格と信頼せられる人倫道徳を身に修めていることであった。儒教の真髄は道への随順であった。先哲の教えや師説に対する随順が第一義で批判分析は随順を経て後に求道者として行ったものである。知性は西洋の如く沒価的に展開するものでなく、常に知情意の均衡を保ちつつ聖賢の道をいかに正しく身に修めるかという方向に進められた。

 儒教はあくまでも求道的修行精進を目的とし人格の感性を使命とした。かかる求道的精神主義のあり方は、客観的存在の事物に対する無関心に陥る惧れがあり、これが西洋的自然科学を成り立て得なかった理由であった。

 儒教と並んで重要な中国思想は老子を祖とする道教の思想である。老子は、一切のものの根源を「道」という。道とは、名付けがたく、語りえぬもの、音もなく形もなく、触れることも出来ないもの、無であって、しかも永久普遍のものである。それは何等為すところなく(無為)して、しかも一切のものを在らしめている。それが自然であるということである。我意をはらず、己を空しくし、無為自然帰することが、人生の要諦であり、また政治であるという。この思想を発展させたのが荘子である。老荘の思想は観念的哲学的であって実用的であるよりは神秘主義の傾向が強く、仙人、遁世、天涯孤独等の幽玄の世界を創り上げた。

 中国の古代に於いてすぐれた多くの達人が出たにも拘らず、近代文明(西洋物質)に落伍したのも、自然科学に比し文科学・社会科学の立遅れもみな求道的修行に捉われたからである。

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人類思想の歴史と未来

第三章 古代思想

  印度思想-佛教

 仏教とは、仏陀の教えということである。仏陀とは「目覚めた者・覚者」、(悟った人、解脱者)のことであり、人間は全て仏陀になれる道の教えでもある。仏教は今から二千五百年前の頃姓ゴータマ、名シッダッタが(釈迦族の中心地方ガピラ城の領主スッドーダナ王の長子として生れた)開いたものである。

 仏教はウパニシャッド哲学を基礎とし、人生の無常観から発して、涅槃の境地に入ることを理想としたものであるが、その教えはバラモン教に対する革新運動として四姓階級の差別を否定して人間の一切平等を唱え、人間誰でも自己修行によって到達解脱しうるものであるとした。

 釈尊は人生を苦と観、世は幻妾であるとした。幻妾は迷いから起こり、迷いは無明から発し、無明は我欲に始まる。これを断ち切らずして苦悩迷妄から解放されることはない。人間は没我禁欲に徹せずして覚者仏陀となることはできない。

 釈尊の説によれば、生老病死の苦は生存のための苦であり、生存は生滅変転を生ずる。生滅変転は執着におこる。執着は愛欲に発し、愛欲は苦の原動力で罪悪をつくる。愛欲は感覚により、感覚は触による。触は六入により、六入は身体組織の具備による。身体組織の人格は色を為すにより、色は意識により、意識は行による。意識と行とは生死のため滅せざるものであるが、本体のあるものではない。それは業因の果にほかならない。世の現象は法にして体ではない。世に不変の本体はない。一切は生滅流転の連続である。一切の法に我無し、我あると思うのは迷いである。この我あるとする迷いによって行動し、又生死の間に業因業果を連続して行くことを無明という。故に無明が一切の迷の因であり、一切苦闘の源である。この苦悶を滅し迷妄を断つことを解脱というのである。解脱は無明の源泉を杜絶するにあり、源泉の杜絶は没我禁欲にありというのである。無明を断つためには四諦、八正道、六波羅蜜、十二因縁説、涅槃がある。

 四諦とは、苦諦、集諦、滅諦、道諦の四つである。

 苦諦-世はすべて苦である(精神的苦、肉体的苦、経済的苦、その他の苦)その苦を嫌い恐れて逃げ隠れしてはならぬ、その実体を見極めることが第一である。

 集諦-何うして苦が起こったかその原因を探究して捉える。苦の原因は我と欲である。

 滅諦-苦の根を断って平安の境地を開く。

 道諦-平安静寂の心を開くには、日々修業鍛練が必要である。妙(心)体(姿)振(行)の三面の菩薩道を実行すること。

 更に苦悩を解消するに八正道を掲げ説いた。人間は自己本位と官能(快楽享楽などの欲望)に片寄らず中道八正道を身に体する修行をせねばならない。

 八正道とは、正見、正思、正語、正行、正命、正精進、正念、正定の八つの悟りである。

 正見-正しい見解。自己本位の見方を捨て、仏の見方で物事を見る。

 正思-正しい意思。自己本位の考えを捨て、仏の心に従ってもの事を考える、即ち意の三悪(貧慎痴)を捨て捉われない。仏の心で考える。

 正語-正しい言語。妾語、両舌、悪口、綺語即ち口の四悪を云わない。

 正行-正しい行為。日常の生活行為行動は仏の戒めに従って行く。即ち身の三悪(殺生、倫盗、邪淫)のない清らかな生き方をする。

 正命-正しい生活。人の迷惑になり世のためにならぬ職業につかぬこと。また正当な収入を得て生活する。

 正精進-正しい努力、意三悪、口の四悪、身の三悪はもとより、怠けたり、傍道にそれたりしない。常に努力する。

 正念-正しい想念。仏と同じ心をもって修行に勵む、自他の人間関係ばかりでなく万物万象に対して悉く物心をもって当る。

 正定-正しい黙想。心を仏の教えで決定し、周囲の変化に捉われ動揺することなく、終始正法を行いつづける。

 この八つの道が八正道である。これは実践教義である。

 次は脱却悟道の修行が六波羅蜜である。これは菩薩道ともいわれるもので布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六つから成っている。

 布施財施、法施、身施の三つの施である。財施は金銭や財物。法施は人に正しく物事を教える。身施とは、他の苦労や心痛苦悩を除いてやる。即ち奉仕と喜捨(寄附)することをいう。

 持戒-仏の戒め教を守り進んで人のため世のために尽す。何時如何なる場合でも人のため世のため積極的に進んで尽すことが大切である。

 忍辱-如何なる迫害、圧迫、誘惑、困難にも屈しない、また裏切られ、背かれても腹を立てない。更に侮辱、嘲笑、罵倒、非難、攻撃、中傷、妨碍にも動じない広い大きな心を修め養う。更に損害をかけたり、怨み呪う者に対しても、恩を報じる。反対に崇め仰がれても有頂天にならず、嬌慢の心を起さず、不運のドン底に落ちても消沈しない心を養う。人間ばかりでなく天地万物に対し悉く寛容の心をもって耐え、気候風土環境に順応して生きて行く心をつくりあげる。

 精進-唯一筋に進んで行く、一旦こうだと決めたら如何なる妨碍、邪魔、迫害、困難があろうとも退くことなく、ひたむきに進む、混り気のない純粋な心の修行を積んで行く。

 禅定-精進修行に加え、静寂不動の精神をもって世情を観、事物の真相を見極める。禅とは静慮心を一つに集注してそれをよく考慮し、そのものになりきる、眞に知るということはそのものになることである。心が乱れていては物事を見極めることができない。定とは、心を一処において動かない。つまり仏心を見定めて不変不動であることである。

 智慧-智は事物の相違点を見分けることであり、差別を知ることである。慧とは事物に共通する点を見出すことである。人は十人十色、それぞれ皆違った性質をもっているが、それらに共通する仏性がある。この差別と平等の作用を知ることによって世の中を正しく見極めることができる。本当の智慧がなければ人のため世のためにやった事でも、他に利用されたり、欺されたり、却って逆結果を招くことになる。

 次は十二因縁である。事物の結果はすべて原因によって生ずるものである。祖先から自分へ、自分から子孫へと輪廻して行くものであることを知り、その根源を究めなければならない。それを知らないため常に自己本位になり、利害得失の欲に陥る。そのため人間は「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上」が代る代るおこって来て苦悩迷妄闇黒無明に突き陥されるのである。無明の根は我と慾である。これを減却するには十二項目「無明・行・誠・六入・触・受・取・有・生・老・病・死」に分けて説いている。

 十二因縁-(無明)とは、我と慾に捉われた心、痴心と無知。(行)とは、無知痴心のために理法に反した行をして来た。これが積み重なって業となる。(誠)とは、人間が物事を知り分ける力をいう、この誠は過去の経験や行や業によって決まる。(名色)とは、名は心、色は身をいい、生存をあらわす。生存(名色)を知るのは誠である。(六入)とは、眼、耳、鼻、舌、身、心のはたらきをいう。(触)とは、六入によって事物を見分ける。(受)とは、触によって苦楽好機の感情がおこる。(愛)とは、その感情がおこると自然愛着心、執着心がおこってくる。(取)とは愛するものには執着し、嫌なものは捨てようとする。(有)とは取捨撰擇の心がおこると想念や主張が生ずる。(生老)とは、この心があるため人は対立し争いを起こし、あさましい人生を展開する。こうして苦しい人生を送っているうちに老の苦しみに出会う。(病死)とは、そして遂に病み死ぬのである。

 このような苦の原因はどうして起こるかといえば、無明我欲から起こるのである。人間が無明我欲であるため自己本位になり、事実を無視し、真実を否定し、実相を弁えず、事物の根底にある法則を無視するのである。心を法則に照らして進めば、行為も法則に従い、次第に法に準じて展開して行き、この世の苦悩幻想は自然に消え、安隠な境地に達することになるというのが縁起説である。人間が現在迷妄苦悩に虐まれているのは、前世の因縁から来ているのである。この根本の無明迷妄の因業を捨て去らなければ、やがて六趣に支配され、不安動揺に包まれ虜となる。子孫もまたその苦しみを負うて不業不運に突き陥され、悲運に泣くことになる。

 次が一切の罪を消滅して覚者解脱の心境を開く涅槃(空寂)の心である。

 涅槃-無明我欲など一切の束縛支配を離れて自由無礙となり、全く心の平安解脱の心境を開くことをいうのである。これが仏教の極意であり究極目標である。

 涅槃は二つの性格に分けられる。一つは無明迷妄苦悩を根絶して、永遠に煩悩に惑わされることのない平穏の生活と境地を得るに至ることをいい、もう一つは空寂の意義を知ることである。我々が在ると思っている物欲や事物は本来無いものである。実在するものは空寂だけである。現象の事物や名誉地位財産などは假象であって実態でないから何時かは跡形もなく消滅してしまう。それはもともと存在するものではないということを悟ったとき、初めて永遠の実在生命の輝きを知るという解釈の二つである。

 釈尊のいう「諸行無常」「諸法無我」「涅槃空寂」の三大真理は仏教悟道解脱の真髄である。人生は苦悩であり、世の中は迷妄である。苦悩迷妄は無明に出る。人間はこの無明我欲のため自己本位になり、自己中心になるため我欲に狂うのである。この無明の根を断ち切るのが、いわゆる解脱であり悟りである。悟るとは諸行無常諸法無我を体現し、無明の我欲煩悩を消滅して、涅槃空寂の境地を開く。万物万象世にありとあらゆるものは、同じものはなく千差万別であり不平等である。また時々刻々悉く流転流動して止まない。而してその根源には差別を超越した平等「空」なる仏性があり、また永遠に変わることない不動の「寂」の仏性があることに於て安定である。このすべてのものの差別を超えた本性と、永遠に変ることのない本性の空寂を悟ることによって我欲無明は消滅して解脱することができる。これが仏教の窮極涅槃である。

 紀元前三世紀、マウリア王朝のアショーカ王の時代に王の支持を受けて仏教は全印度に普及し、仏教教団の発展は、保守的正統派(上座部)と進歩的改革派(大衆部)に分裂し、更に両派とも再分裂した。上座部の正統派はセイロンに伝えられ、その後ビルマ、タイ、ベトナムなど東南アジアに伝えられ今日に至っている。進歩改革派の大衆部は、中央アジアに進出し北部印度より中国(漢帝国)に入り、ギリシャ、ローマにも接触し、自由で順応性に富んだ普遍宗教として発展した。七世紀の頃すぐれた宗教家が輩出したが、インド文化の停滞期を迎えると共に仏教も衰退し、やがてイスラム教の侵入によって姿を消すことになった。而し中国に入った仏教は隋・唐時代に発展し、すぐれた思想家宗教家が多く輩出し、この中国仏教は、朝鮮を経て紀元六世紀以降日本に伝えられ、奈良時代より平安時代を経て鎌倉時代に定着し、以来我が国の文化を培ったのである。

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人類思想の歴史と未来

16、オロゴメ

 藩政時代「馬追(うんまえ)」は年中行事の一つで、最も男性的で勇壯を極めたもので、笠(おろ)山に牧場を作り、平時は「牧司」数名が警戒に当り、毎年一回四月中「卯の日」に仔馬(二才馬)捕りをし、当日は六郷が大小幾多の旗をひるがえし、郷別に円陣をつくり捕手達は大旗小旗を打振り馬をかり立て、かねて設けた「笠」に追い込んで捕えたもので、予定数だけ捕獲したら終りとされ捕えた二才馬は藩庁に送り軍馬に育成された。(上東郷郷士資料による)

 垂水では、柊原上之原から大野原一帯が島津氏の牧場で、野生馬を市木や馬込に追い込んで捕まえていた。これらの行事が子供達に引継がれてきたものが「オロゴメ」の行事である。

「オロゴメ」は旧暦五月五日(現在は新暦月遅れの六月五日)早朝行われる。前日までに海岸に穴を掘り準備しておく。穴は縦横七尺(約二メートル)深さ五尺(約一メートル)の四角形で入口三尺(約一メートル)である。

 当日は午前三時頃から「たいまつ」をともし、ホラ貝を吹いて山に登り一番頂上に陣旗を立てる。陣旗には「子馬ひき出す馬合戦」と書かれ「オヤガシラ」(親馬の意で小学六年生)所有のものである。

 やがて山を下り、海岸に掘った穴のところにいく。「オヤガシラ」は海岸に掘った穴の中に「コガシラ」(子馬の意で小学生以下)を追い込み、外側から耳と足をもって入口から引き出すのである。一方「コガシラ」は白い六尺フンドシ(今はパンツ)一枚の姿で「オヤガシラ」に対して暴れまわるのである。「オヤガシラ」が「コガシラ」を全員穴から引出したとき勝負は終る。

 昔は「オロゴメ」終了後、水之上の子供達とよく竹合戦をしていたらしい。

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