いしずえ

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2021-06-01から1ヶ月間の記事一覧

16、オロゴメ

藩政時代「馬追(うんまえ)」は年中行事の一つで、最も男性的で勇壯を極めたもので、笠(おろ)山に牧場を作り、平時は「牧司」数名が警戒に当り、毎年一回四月中「卯の日」に仔馬(二才馬)捕りをし、当日は六郷が大小幾多の旗をひるがえし、郷別に円陣を…

14、オンダンコラ

「オンダンコラ」は新光寺の高岩の下を出たところの小字「小野田」(オンダ)の河原(コラ)である。 昔新光寺及田川原(オンダンコラ)などに数多くの百姓が居住し、新光寺という寺もあった。白山参り、岳参りにはこの地を通って登り下りして、皆小野田の河…

18、十五夜綱引き

昔は山に「かや引き」に行き、親がとってくれた葛かづらと一緒に綱を編んで、旧暦八月十五日夜綱引きをしたものである。子供達は夏休み中の「かや」のとり高によって賞品などを当日与えられていた。 「かや引き」は子供達の楽しみの一つでもあったが、子供達…

19、六月燈

王子神社の六月燈は旧暦六月十三日王子神社下の海岸に出店が立ち並び非常に盛大で、大人も子供も大変楽しみであった。 現在は、子供達が夏休みに入ってから行われている。 馬頭観音の六月燈は、旧暦六月十八日であった。石踊どんの六月燈は今でも石踊一家で…

⑵ 恐怖の大空襲

篠原サチ(上東) 昭和二十年八月と言いますと私達家族は主人が戦地に行き、私は二歳八ヶ月と一歳足らずの二児を抱えて柊原の実家に帰っておりました。二十年に入ると敵機がしばしば偵察や侵入して来るようになり警戒警報のサイレンが鳴ると何をおいても子供…

第二章 思想の源流

古代文化思想は、ギリシャ、印度、中国、ユダヤにしても戦乱若しくは社会混乱の時代に起こったものである。何れも紀元前六世紀(二六〇〇年)から前四世紀(二四〇〇年)にかけて、優れた思想家が輩出した時代であった。人類はこの時代に世界観人生観の探究…

(四)柊原中学校 さざなみ保育園

一、柊原中学校 昭和二十二年新学制によって、垂水中学校柊原教場として発足、柊原小学校内に設置、同二十四年垂水町立柊原中学校として独立、同二十五年錦町(川島絹織工場付近)に校地移転、新校舎を建設して移る。 昭和三十四年、新城中と名目合併、同三…

柊原婦人会の歩み

七、今後の婦人会へ 今後は婦人会とは非常に楽しい団体であるという気風を作ること、その為には何れの集落も婦人会の組織があり、年齢にも余り制限がないこと、また、一つには多くの友達が出来、その友達仲間同志が高ぶらず劣等感ももたないこと、どこでも自…

柊原婦人会の歩み

六、婦人会の現状と課題 今日の社会の変遷と、人々の生活や思考も多様化し、公私共に多忙な時代となった。 特に現代の世相は、一時として金がなければ生活できない。また、車社会でもあり、隣が車を持てば自分も持たなければ時代おくれの感をもち、一方では…

中国思想

殷王朝は多くの都市国家の支配者たちを武力で統合した盟主であった。いわゆる支配者たちは諸候であり、人民に対する殷王朝の支配は、これら諸候を介しての間接支配であった。周王朝はそのままの体制を継承した。唯周は一族の者を各地の支配者として送り込み…

柊原婦人会の歩み

五、婦人会の再建 昭和三十一年、垂水市では集落婦人会を統一し連絡協議会をつくり、連帯意識を高めるようにした。 柊原婦人会も連絡協議会をつくり、会長、副会長、会計の三役を置き、婦人会規約も整え、その事務所を柊原地区公民館に置いた。 毎月定例会及…

柊原婦人会の歩み

四、終戦直後の生活 「勝つまではガンバロー」のかけ声で、お互いに張り切ってきた。だが国敗れてみんな生きる気を失った。眼の前は真っ暗で国民は前途どう生きればよいのか、男も女もすべての人が、言うにいわれぬ気持ちであった。 特に母は愛する夫や愛す…

柊原婦人会の歩み

三、国防婦人会 昭和十二年日華事変が勃発し、戦線は次第に拡大していった。 陸軍も初めは現役兵だけだったが、戦線の拡大につれ予備兵も出征し、多くの男子は戦場に出ていった。 連戦連勝の声のもとに、国中は喜びの声で沸き立っていたが、一方では悲しい戦…