いしずえ

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⑵ 恐怖の大空襲

篠原サチ(上東)

 昭和二十年八月と言いますと私達家族は主人が戦地に行き、私は二歳八ヶ月と一歳足らずの二児を抱えて柊原の実家に帰っておりました。二十年に入ると敵機がしばしば偵察や侵入して来るようになり警戒警報のサイレンが鳴ると何をおいても子供を連れて防空壕へと避難し、警報が解除になれば家に帰ってくる毎日のくり返しでした。

 裏山にはそれぞれ家族毎に無数の防空壕が掘られ、避難場所として大事な家戝道具が入れられておりました。

 私達は裏山に自分の所有地がありましたので一番眺めの良い、日当りの良い場所に防空壕を作ってもらっておりました。他家の人々は所有者から土地を借りて壕を作っておりました。

 八月五日は晴天で朝早くから警戒警報のサイレンが不気味に鳴り響き、かねてと違った状況だったので私達は親子三人と姪の四人で早々と防空壕へ避難していました。十一時過ぎだったと思います、誰かが死物狂いで大きな声で「もう垂水の街は丸焼けだ」と叫びながら坂を走り去って行きました。おそらく上野台地の畑に農作業に出ており垂水の街が焼ける様子が見えて驚いて自分の家に走って帰るところだったと思う。私達がうずくまっていると、しばらくしてから機音が聞えて来たかと思うと小学校の西あたりで航空隊の高射砲がドドンドドンと敵機を射(う)つけたたましい音が絶え間なく聞こえて来ましたのでこのさきどうなることかと抱き合ってひそんでおりました。間もなく戦斗機が低空で物すごい音で柊原全体を襲いかかって来ました。

 そして突然私達の壕の前に爆弾が落ち破裂して大音響と共に火を吐き始め隣りの壕の中が燃え始めました。私達の防空壕は隣の壕とは直径五十糎位の穴で通じる様になっていました。その穴から真赤な炎がゴオッゴオッと音をたててはいってきたかと思ったら、こんどは隣の壕にいた娘さん(十九歳位)が火だるまに燃えながら仰向けに落ちてきました。私は子供と女手ではどうする事も出来ず子ども達を布で包んで山奥の他所の防空壕へと避難しました。時間がどの位過ぎたのかわかりませんが空襲が止んでからもとの避難していた場所に帰ってみると隣りの壕で十人、その隣の壕で七人全員焼死しておりました。私達も最後までそのまま壕の中にいたらどうなっていたことか。子供達も顔は煙で煤けており、ようこそ助かったものと運の強さに嬉び抱き合ったものでした。焼死された娘さん達は当日も早々と避難してきて壕の外で親子四人で仲睦ましく髪のシラミ取りなどして時を過ごされておられた姿が今でも目にやきついて浮んできます。

 私達の壕が眺めや日当りが良い所であったので敵機からも良く見えたので爆弾を落したのであろう、ついさっきまで柊原の人家が密集していた風景は跡形もなく見渡すかぎり黒こげとなり残り火や煙が無数にあがっており無惨な姿は残念で涙さえも出なかった。私の疎開倉庫も全焼し全くの着のみ着のままで幼い二児を抱えて途方にくれました。しかしみんな沢山の人々がこんな状態でありましたので、自分がしっかりしなければと気をとりなおして頑張りました。

 八月十五日は戦争が終ったと人々が話し始めましたが、それはデマで、その人はスパイだと怒る人もおりました。

 やがて終戦となり主人もしばらくしてから帰省し正気は取り戻したものの、これからは衣食住をどうして求めたらよいか前途を考えると不安でなりませんでした。

 戦災からしばらくして柊原では昔も行なわれていた塩田が始まりました。非常に難儀な仕事で私達には無理なことが多くありましたが、只々努力と頑張らなければと自分に言い聞かせて辛抱しました。塩が唯一の頼みの綱でした。肝付方面や県内に塩をかついで行き麦やからいもなどの食糧や衣類と交換して帰ってくる毎日でした。

 遠く北九州あたりまで行って当時取り締りの厳しかった米などと交換し、法の裏をくぐって運んで来たりしました。本当に柊原の人々は塩が命をつないで生きてきました。戦争は遠くの外地で兵隊さんがするものと思っていましたが実際にこの地でこの目で殺傷の悲惨さを見たり恐ろしい体験をすることは私だけでもう十分です。これから戦争のない平和な国がいついつまでも続くよう祈る心で一杯です。

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