いしずえ

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2021-01-01から1年間の記事一覧

第三章 古代思想

中国思想儒教道教 儒教とは儒者の教のことである。儒とは潤す徳化浸潤することをいい、また儒は柔、優で人を安んじ心服させるという意味である。孔子をもってその祖となし、孔子は春秋時代約二五〇〇年前の頃のすぐれた指導者(思想家哲学者)として多くの門…

第三章 古代思想

印度思想-佛教 仏教とは、仏陀の教えということである。仏陀とは「目覚めた者・覚者」、(悟った人、解脱者)のことであり、人間は全て仏陀になれる道の教えでもある。仏教は今から二千五百年前の頃姓ゴータマ、名シッダッタが(釈迦族の中心地方ガピラ城の…

16、オロゴメ

藩政時代「馬追(うんまえ)」は年中行事の一つで、最も男性的で勇壯を極めたもので、笠(おろ)山に牧場を作り、平時は「牧司」数名が警戒に当り、毎年一回四月中「卯の日」に仔馬(二才馬)捕りをし、当日は六郷が大小幾多の旗をひるがえし、郷別に円陣を…

14、オンダンコラ

「オンダンコラ」は新光寺の高岩の下を出たところの小字「小野田」(オンダ)の河原(コラ)である。 昔新光寺及田川原(オンダンコラ)などに数多くの百姓が居住し、新光寺という寺もあった。白山参り、岳参りにはこの地を通って登り下りして、皆小野田の河…

18、十五夜綱引き

昔は山に「かや引き」に行き、親がとってくれた葛かづらと一緒に綱を編んで、旧暦八月十五日夜綱引きをしたものである。子供達は夏休み中の「かや」のとり高によって賞品などを当日与えられていた。 「かや引き」は子供達の楽しみの一つでもあったが、子供達…

19、六月燈

王子神社の六月燈は旧暦六月十三日王子神社下の海岸に出店が立ち並び非常に盛大で、大人も子供も大変楽しみであった。 現在は、子供達が夏休みに入ってから行われている。 馬頭観音の六月燈は、旧暦六月十八日であった。石踊どんの六月燈は今でも石踊一家で…

⑵ 恐怖の大空襲

篠原サチ(上東) 昭和二十年八月と言いますと私達家族は主人が戦地に行き、私は二歳八ヶ月と一歳足らずの二児を抱えて柊原の実家に帰っておりました。二十年に入ると敵機がしばしば偵察や侵入して来るようになり警戒警報のサイレンが鳴ると何をおいても子供…

第二章 思想の源流

古代文化思想は、ギリシャ、印度、中国、ユダヤにしても戦乱若しくは社会混乱の時代に起こったものである。何れも紀元前六世紀(二六〇〇年)から前四世紀(二四〇〇年)にかけて、優れた思想家が輩出した時代であった。人類はこの時代に世界観人生観の探究…

(四)柊原中学校 さざなみ保育園

一、柊原中学校 昭和二十二年新学制によって、垂水中学校柊原教場として発足、柊原小学校内に設置、同二十四年垂水町立柊原中学校として独立、同二十五年錦町(川島絹織工場付近)に校地移転、新校舎を建設して移る。 昭和三十四年、新城中と名目合併、同三…

柊原婦人会の歩み

七、今後の婦人会へ 今後は婦人会とは非常に楽しい団体であるという気風を作ること、その為には何れの集落も婦人会の組織があり、年齢にも余り制限がないこと、また、一つには多くの友達が出来、その友達仲間同志が高ぶらず劣等感ももたないこと、どこでも自…

柊原婦人会の歩み

六、婦人会の現状と課題 今日の社会の変遷と、人々の生活や思考も多様化し、公私共に多忙な時代となった。 特に現代の世相は、一時として金がなければ生活できない。また、車社会でもあり、隣が車を持てば自分も持たなければ時代おくれの感をもち、一方では…

中国思想

殷王朝は多くの都市国家の支配者たちを武力で統合した盟主であった。いわゆる支配者たちは諸候であり、人民に対する殷王朝の支配は、これら諸候を介しての間接支配であった。周王朝はそのままの体制を継承した。唯周は一族の者を各地の支配者として送り込み…

柊原婦人会の歩み

五、婦人会の再建 昭和三十一年、垂水市では集落婦人会を統一し連絡協議会をつくり、連帯意識を高めるようにした。 柊原婦人会も連絡協議会をつくり、会長、副会長、会計の三役を置き、婦人会規約も整え、その事務所を柊原地区公民館に置いた。 毎月定例会及…

柊原婦人会の歩み

四、終戦直後の生活 「勝つまではガンバロー」のかけ声で、お互いに張り切ってきた。だが国敗れてみんな生きる気を失った。眼の前は真っ暗で国民は前途どう生きればよいのか、男も女もすべての人が、言うにいわれぬ気持ちであった。 特に母は愛する夫や愛す…

柊原婦人会の歩み

三、国防婦人会 昭和十二年日華事変が勃発し、戦線は次第に拡大していった。 陸軍も初めは現役兵だけだったが、戦線の拡大につれ予備兵も出征し、多くの男子は戦場に出ていった。 連戦連勝の声のもとに、国中は喜びの声で沸き立っていたが、一方では悲しい戦…

柊原婦人会の歩み

二、婦人会の主な活動 婦人会の一年間の主な行事は、学校参観、学芸会、運動会、作品品評会等であったようです。大正時代は、月一回必ず会合がもたれ、運動会ではいつも線香とぼし競争が婦人会の競技種目であった。 作品の品評会は校区や村内のものがあつま…

柊原婦人会の歩み

一、昔の婦人会(思い出) 大正から昭和の初年代の校区婦人会について記憶をたどりながら記述すると、婦人会の発足は不明であるが、大正年代、婦人会が学校であり、その日は母が朝早くから髪を整えたり歯を黒く染めたりする姿を思い出す。 昔の婦人会は男子…

中国文化

紀元前一四〇〇年頃黄河の支流河南以西の高原地帯に農耕文化が開かれた。やがて下流にわたる華北平原に展開されるに至った。黄河の氾濫は河筋をたえず変え、治水は眞に困難なものであったに違いない。黄河の下流にわたる華北平原に展開された農業の豊かな生…

柊原青年団の歩み

十、農村の過疎化 日本の産業が復興するにつれ、労働力がますます不足し、そのため、都市への若年労働者の流出が多くなり、中学校卒業生の金の卵といわれ、卒業と同時の男も女も都会へ出ていった。 一方、高校や大学への進学者も暫時増加し、進学のために出…

柊原青年団の歩み

九、教育制度の改革と青年団 昭和二十二年、新しい教育制度によって、これまでの国民学校から小学校となり、その上に新制中学校がおかれ、義務教育も小・中学校九ヶ年となった。また、中学校の上に新制の高等学校が設置された。 しかし、その頃は義務教育ま…

柊原青年団の歩み

八、青年団の再建 やがて人々は敗戦の虚脱状態からぬけ出し若い人達も祖国再建の目標に向かって、夜毎の話し合いの中から青年団の必要性が高まり、各地で青年団が組織され、活動も活発化していった。 昭和二十五年朝鮮戦争が起こり、日本は軍需景気で、都会…

柊原青年団の歩み

七、終戦と復員 敗戦という戦争の結果、生き残った者も裸一貫で故郷の土を踏み、帰郷しても寝る家も食べる物もなく、途方にくれる日々が続いた。 国破れて山河ありで、同じ所で生まれ育った者同志の深い人情が生きるための、頼みの綱であった。 敗戦後は、国…

ギリシャ思想

神話的世界観が思想・哲学として形成されてゆくためには、合理的思考法が必要である。しかし人間の生活は多くの非合理性を含み、非合理的な諸条件の中で営まれるものであって、合理的思考法は、非合理的理法を明らかにし、それを排除し、押し退けるのでなく…

柊原青年団の歩み

六、戦時下の青年団 昭和十二年日華事変が勃発し、そのため国内でも軍需産業が盛んになり、今まで農業をしていた者も都会への流出が多くなった。 また、軍では一般徴募兵では軍人の不足から陸海軍共多くの志願兵を採用した。従って農村では徴兵、志願兵が多…

柊原青年団の歩み

五、青年団活動 大正十三年、垂水村は垂水町となり、教育の面でも特に社会教育のための施設整備が遅れていた。従って、柊原校区でも支部毎に(上支部=鬼山ー並松)(中支部=上比良ー下中村)(下支部=上市之園ー下)、集会場を作り、そこを青年達の育成の…

柊原青年団の歩み

四、消防と夜警 柊原は昔は茅葺屋根がほとんどで、火災が起こると大火になることが多かった。 柊原では大正元年にも大火があり、人々は火災の恐ろしさをじかに感じ、火災を出さない方法はないかと考えた。その為には、お互いが火の用心をすることが大事であ…

ギリシャの文化

ギリシャ民族が、南ロシアからギリシャの地に侵入して来たのは紀元前一千年を遡る時代のことである。彼らはゼウスのような男神を崇め、父系的父権組織をもった遊牧民であった。彼らがギリシャに侵入して来たとき、エーゲ海には先住民がいて、クレタ島を中心…

印度思想

前八世紀頃まで、三ヴェーダ(リグ以外のサーマ、ヤジュル、アタルヴァ)本集も成立した。アタルヴァ・ヴェーダは呪法を主とするもので、先住民族の土着文化と密接な関係がある。これを主管する祈禱僧は祭式全般を総監する祭官たる位置が与えられた。このバ…

柊原青年団の歩み

三、学舎の創設 明治十一年、柊原小学校が創立され、同三十四年に第一代の専任校長として真川校長が花岡村より赴任された。 真川校長は、当地が前任地に比べ、普通教育、社会教育共におくれていることに気付かれ、特に学校を卒業した青少年の将来を考え、青…

印度文化

父系的父権社会組織を有する遊牧民インド・アーリア人が西トルキスタンから西印度に侵入しインダス河上流の五河地方を占拠したのは三千三百年前頃である。当時の印度には農耕を営み村落を形成し、地母神を崇め、母系的母権社会組織を有する先住民族が存在し…