いしずえ

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第三章 古代思想

  印度思想-佛教

 仏教とは、仏陀の教えということである。仏陀とは「目覚めた者・覚者」、(悟った人、解脱者)のことであり、人間は全て仏陀になれる道の教えでもある。仏教は今から二千五百年前の頃姓ゴータマ、名シッダッタが(釈迦族の中心地方ガピラ城の領主スッドーダナ王の長子として生れた)開いたものである。

 仏教はウパニシャッド哲学を基礎とし、人生の無常観から発して、涅槃の境地に入ることを理想としたものであるが、その教えはバラモン教に対する革新運動として四姓階級の差別を否定して人間の一切平等を唱え、人間誰でも自己修行によって到達解脱しうるものであるとした。

 釈尊は人生を苦と観、世は幻妾であるとした。幻妾は迷いから起こり、迷いは無明から発し、無明は我欲に始まる。これを断ち切らずして苦悩迷妄から解放されることはない。人間は没我禁欲に徹せずして覚者仏陀となることはできない。

 釈尊の説によれば、生老病死の苦は生存のための苦であり、生存は生滅変転を生ずる。生滅変転は執着におこる。執着は愛欲に発し、愛欲は苦の原動力で罪悪をつくる。愛欲は感覚により、感覚は触による。触は六入により、六入は身体組織の具備による。身体組織の人格は色を為すにより、色は意識により、意識は行による。意識と行とは生死のため滅せざるものであるが、本体のあるものではない。それは業因の果にほかならない。世の現象は法にして体ではない。世に不変の本体はない。一切は生滅流転の連続である。一切の法に我無し、我あると思うのは迷いである。この我あるとする迷いによって行動し、又生死の間に業因業果を連続して行くことを無明という。故に無明が一切の迷の因であり、一切苦闘の源である。この苦悶を滅し迷妄を断つことを解脱というのである。解脱は無明の源泉を杜絶するにあり、源泉の杜絶は没我禁欲にありというのである。無明を断つためには四諦、八正道、六波羅蜜、十二因縁説、涅槃がある。

 四諦とは、苦諦、集諦、滅諦、道諦の四つである。

 苦諦-世はすべて苦である(精神的苦、肉体的苦、経済的苦、その他の苦)その苦を嫌い恐れて逃げ隠れしてはならぬ、その実体を見極めることが第一である。

 集諦-何うして苦が起こったかその原因を探究して捉える。苦の原因は我と欲である。

 滅諦-苦の根を断って平安の境地を開く。

 道諦-平安静寂の心を開くには、日々修業鍛練が必要である。妙(心)体(姿)振(行)の三面の菩薩道を実行すること。

 更に苦悩を解消するに八正道を掲げ説いた。人間は自己本位と官能(快楽享楽などの欲望)に片寄らず中道八正道を身に体する修行をせねばならない。

 八正道とは、正見、正思、正語、正行、正命、正精進、正念、正定の八つの悟りである。

 正見-正しい見解。自己本位の見方を捨て、仏の見方で物事を見る。

 正思-正しい意思。自己本位の考えを捨て、仏の心に従ってもの事を考える、即ち意の三悪(貧慎痴)を捨て捉われない。仏の心で考える。

 正語-正しい言語。妾語、両舌、悪口、綺語即ち口の四悪を云わない。

 正行-正しい行為。日常の生活行為行動は仏の戒めに従って行く。即ち身の三悪(殺生、倫盗、邪淫)のない清らかな生き方をする。

 正命-正しい生活。人の迷惑になり世のためにならぬ職業につかぬこと。また正当な収入を得て生活する。

 正精進-正しい努力、意三悪、口の四悪、身の三悪はもとより、怠けたり、傍道にそれたりしない。常に努力する。

 正念-正しい想念。仏と同じ心をもって修行に勵む、自他の人間関係ばかりでなく万物万象に対して悉く物心をもって当る。

 正定-正しい黙想。心を仏の教えで決定し、周囲の変化に捉われ動揺することなく、終始正法を行いつづける。

 この八つの道が八正道である。これは実践教義である。

 次は脱却悟道の修行が六波羅蜜である。これは菩薩道ともいわれるもので布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六つから成っている。

 布施財施、法施、身施の三つの施である。財施は金銭や財物。法施は人に正しく物事を教える。身施とは、他の苦労や心痛苦悩を除いてやる。即ち奉仕と喜捨(寄附)することをいう。

 持戒-仏の戒め教を守り進んで人のため世のために尽す。何時如何なる場合でも人のため世のため積極的に進んで尽すことが大切である。

 忍辱-如何なる迫害、圧迫、誘惑、困難にも屈しない、また裏切られ、背かれても腹を立てない。更に侮辱、嘲笑、罵倒、非難、攻撃、中傷、妨碍にも動じない広い大きな心を修め養う。更に損害をかけたり、怨み呪う者に対しても、恩を報じる。反対に崇め仰がれても有頂天にならず、嬌慢の心を起さず、不運のドン底に落ちても消沈しない心を養う。人間ばかりでなく天地万物に対し悉く寛容の心をもって耐え、気候風土環境に順応して生きて行く心をつくりあげる。

 精進-唯一筋に進んで行く、一旦こうだと決めたら如何なる妨碍、邪魔、迫害、困難があろうとも退くことなく、ひたむきに進む、混り気のない純粋な心の修行を積んで行く。

 禅定-精進修行に加え、静寂不動の精神をもって世情を観、事物の真相を見極める。禅とは静慮心を一つに集注してそれをよく考慮し、そのものになりきる、眞に知るということはそのものになることである。心が乱れていては物事を見極めることができない。定とは、心を一処において動かない。つまり仏心を見定めて不変不動であることである。

 智慧-智は事物の相違点を見分けることであり、差別を知ることである。慧とは事物に共通する点を見出すことである。人は十人十色、それぞれ皆違った性質をもっているが、それらに共通する仏性がある。この差別と平等の作用を知ることによって世の中を正しく見極めることができる。本当の智慧がなければ人のため世のためにやった事でも、他に利用されたり、欺されたり、却って逆結果を招くことになる。

 次は十二因縁である。事物の結果はすべて原因によって生ずるものである。祖先から自分へ、自分から子孫へと輪廻して行くものであることを知り、その根源を究めなければならない。それを知らないため常に自己本位になり、利害得失の欲に陥る。そのため人間は「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上」が代る代るおこって来て苦悩迷妄闇黒無明に突き陥されるのである。無明の根は我と慾である。これを減却するには十二項目「無明・行・誠・六入・触・受・取・有・生・老・病・死」に分けて説いている。

 十二因縁-(無明)とは、我と慾に捉われた心、痴心と無知。(行)とは、無知痴心のために理法に反した行をして来た。これが積み重なって業となる。(誠)とは、人間が物事を知り分ける力をいう、この誠は過去の経験や行や業によって決まる。(名色)とは、名は心、色は身をいい、生存をあらわす。生存(名色)を知るのは誠である。(六入)とは、眼、耳、鼻、舌、身、心のはたらきをいう。(触)とは、六入によって事物を見分ける。(受)とは、触によって苦楽好機の感情がおこる。(愛)とは、その感情がおこると自然愛着心、執着心がおこってくる。(取)とは愛するものには執着し、嫌なものは捨てようとする。(有)とは取捨撰擇の心がおこると想念や主張が生ずる。(生老)とは、この心があるため人は対立し争いを起こし、あさましい人生を展開する。こうして苦しい人生を送っているうちに老の苦しみに出会う。(病死)とは、そして遂に病み死ぬのである。

 このような苦の原因はどうして起こるかといえば、無明我欲から起こるのである。人間が無明我欲であるため自己本位になり、事実を無視し、真実を否定し、実相を弁えず、事物の根底にある法則を無視するのである。心を法則に照らして進めば、行為も法則に従い、次第に法に準じて展開して行き、この世の苦悩幻想は自然に消え、安隠な境地に達することになるというのが縁起説である。人間が現在迷妄苦悩に虐まれているのは、前世の因縁から来ているのである。この根本の無明迷妄の因業を捨て去らなければ、やがて六趣に支配され、不安動揺に包まれ虜となる。子孫もまたその苦しみを負うて不業不運に突き陥され、悲運に泣くことになる。

 次が一切の罪を消滅して覚者解脱の心境を開く涅槃(空寂)の心である。

 涅槃-無明我欲など一切の束縛支配を離れて自由無礙となり、全く心の平安解脱の心境を開くことをいうのである。これが仏教の極意であり究極目標である。

 涅槃は二つの性格に分けられる。一つは無明迷妄苦悩を根絶して、永遠に煩悩に惑わされることのない平穏の生活と境地を得るに至ることをいい、もう一つは空寂の意義を知ることである。我々が在ると思っている物欲や事物は本来無いものである。実在するものは空寂だけである。現象の事物や名誉地位財産などは假象であって実態でないから何時かは跡形もなく消滅してしまう。それはもともと存在するものではないということを悟ったとき、初めて永遠の実在生命の輝きを知るという解釈の二つである。

 釈尊のいう「諸行無常」「諸法無我」「涅槃空寂」の三大真理は仏教悟道解脱の真髄である。人生は苦悩であり、世の中は迷妄である。苦悩迷妄は無明に出る。人間はこの無明我欲のため自己本位になり、自己中心になるため我欲に狂うのである。この無明の根を断ち切るのが、いわゆる解脱であり悟りである。悟るとは諸行無常諸法無我を体現し、無明の我欲煩悩を消滅して、涅槃空寂の境地を開く。万物万象世にありとあらゆるものは、同じものはなく千差万別であり不平等である。また時々刻々悉く流転流動して止まない。而してその根源には差別を超越した平等「空」なる仏性があり、また永遠に変わることない不動の「寂」の仏性があることに於て安定である。このすべてのものの差別を超えた本性と、永遠に変ることのない本性の空寂を悟ることによって我欲無明は消滅して解脱することができる。これが仏教の窮極涅槃である。

 紀元前三世紀、マウリア王朝のアショーカ王の時代に王の支持を受けて仏教は全印度に普及し、仏教教団の発展は、保守的正統派(上座部)と進歩的改革派(大衆部)に分裂し、更に両派とも再分裂した。上座部の正統派はセイロンに伝えられ、その後ビルマ、タイ、ベトナムなど東南アジアに伝えられ今日に至っている。進歩改革派の大衆部は、中央アジアに進出し北部印度より中国(漢帝国)に入り、ギリシャ、ローマにも接触し、自由で順応性に富んだ普遍宗教として発展した。七世紀の頃すぐれた宗教家が輩出したが、インド文化の停滞期を迎えると共に仏教も衰退し、やがてイスラム教の侵入によって姿を消すことになった。而し中国に入った仏教は隋・唐時代に発展し、すぐれた思想家宗教家が多く輩出し、この中国仏教は、朝鮮を経て紀元六世紀以降日本に伝えられ、奈良時代より平安時代を経て鎌倉時代に定着し、以来我が国の文化を培ったのである。

   (43 43' 23)

    

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人類思想の歴史と未来