四、消防と夜警
柊原は昔は茅葺屋根がほとんどで、火災が起こると大火になることが多かった。
柊原では大正元年にも大火があり、人々は火災の恐ろしさをじかに感じ、火災を出さない方法はないかと考えた。その為には、お互いが火の用心をすることが大事であるということから、夜間に集落内の見廻り役を若者達が引き受けたのが夜警の始まりという。
若者達は、いざ火災だという声と共に飛び出して火元にかけつけ火消しに一生懸命であった。
その後、消防団が生まれ、独立して消火に当たった。
このように、青年会の勧めは、自分の集落から火災を出さない、そのため、夜警が重要な任務と考えられるようになり、どの集落も三坪程の夜警舎(番小屋)を建てて当番を決め、夜間に二・三回集落中を見廻った。
青年会には、学校を卒業するとすぐ加入しなければならない規制があった。青年会の加入年限は、高等科を卒業した十五・六歳から二十五歳頃まで、郷土にいる男子すべてが参加していた。
夜警舎(番小屋)は終戦後二十五・六年まで残っていた所もあったが、時と共に自然と姿を消していった。
それは、昭和二十七年日本中社会教育が重視され、地区公民館づくりが始まり、各集落の夜警舎を廃止して、一ヶ所に若者を集めて教育や催しを行う等の理由で夜警舎がなくなり、また、防火の任務は自衛消防団が独立して活動するようになり、夜警の必要もなくなったと思われる。
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