三、学舎の創設
明治十一年、柊原小学校が創立され、同三十四年に第一代の専任校長として真川校長が花岡村より赴任された。
真川校長は、当地が前任地に比べ、普通教育、社会教育共におくれていることに気付かれ、特に学校を卒業した青少年の将来を考え、青少年教育の道を模索した結果、夜学者を設けて若い人々を教育することとした。
そのため、二ヶ所に夜学舎を建て、その名を「行余学舎」及び「拳膺学舎」とした。場所は柊原方面は江良迫、軽砂方面は並松に建てられたが、経済上の都合で明治三十六年四月両舎を合併し、行余学舎とした。
科目は修身、国語、算術等で教師は柊原小学校の教員が一名ずつ輪番で出席し、毎夜四十数名の舎生が出て学んだ。
また、教科の外に、弁論大会があり、時には花岡村の人々と弁論大会を行ったこともあると古老の話しがある。
行余学舎は明治からずっと続けられ、大正の初期頃まで上比良の一角にあって、この学舎に学んだ人々が、大正から昭和初期にかけて柊原青年層の中心的役員として活躍した。
このように柊原の青年も個人的から集団的に結束することに目覚め、やがて二才会から青年会へと進んで行った。
また、この時代の若者も、昼間は家業に励み、夜は一ヶ所に集まって、個人のこと、社会的なこと等夜の更けるまで話し合った。
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