いしずえ

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柊原青年団の歩み

一、二才制度

 県教育史によると、島津家分国法ともいうべきものに、忠良、貴久連判の掟(おきて)と、忠良が義久に与えた「諫議(かんぎ)書」などがあり、その掟の一条に「諸士衆中忠孝の道、第一に相守り、五人与(ぐみ)中むつまじく可交事(まじわるべきこと)とあり、五人組の子弟のしつけや成人教育の責任を負わせた。

 また、忠良は近臣の子弟を集め、自ら「義理の咄(はなし)」「忠義の咄」を話して聞かせたという。

 朝鮮の役の時、留守役の親納忠元は、青少年の堕落を心配して、青少年の間に与を結成させ、何でも話し合う会を作らせた。この咄相中を忠元は「二才咄」と名づけ、のち二才話は郷中教育と発展した。

 二才は、鹿児島城下では十四、五から二十四、五歳頃までで、それ以上が長老、十四、五歳以下を稚児といい、二才咄格式定目には第一武道を嗜むべき事、兼て士の格式油断なくせん儀致すべき事とある。

 庶民の間でも、十五歳になり一人前と認められ、要夫として門地が与えられると同時に村の二才組に参加し、先輩から厳しいしつけや訓練を受け、村の行事にも参加したという。

 柊原でも昔は二才どんといい、現在でも高齢者は若い人に二才どんと言うこともある。

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