いしずえ

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第五章 近代思想

 十八世紀 民主主義・合理主義

 この世紀には、感情的人間観が成立した。人間の人間たる本性は感情にあるとする人間観である。十世紀において理性によって感情を規制するところに、人間の人間たる所以があると考えられたに対し、十八世紀においては、人情味、親切さ、親しみにあるとするところに、人間らしいことであり、ここにヒューマニティが博愛・人道・仁愛を意味することになった。

 十七世紀の理想的人間観は天上の神によって与えられたものであって、感情は人間の地上性をあらわすものと考えるキリスト教の神学的人間観が前提にされていたことを物語るものであるが、これに対して人間の人間たる所以を感情に認めるということは、地上的存在者としての人間存在の主張が、一歩前進したことを物語るものである。

 カント
 十八世紀カント以降ドイツ理想主義哲学によって十七世紀的理性的人間観と十八世紀的感情的人間観との根底にあるものは、意志的努力—行動的人間であることが明らかにせられた。カントは行動的人間を実践理性の要請として自由であると表明された。

 ゲーテ
 人間は努力する限り、たえず迷うものであるが、また努力する限り、必ず救われるという人間観を表明した。ゲーテ新約聖書ヨハネ伝に「始めにロゴスあり、ロゴスは神と共にあり、ロゴスは神なりき」のロゴスをドイツ語で何んと訳したか「行」と訳し「行動的人間」に達した。そしてその「行動的人間」観は「自由」に求めたのである。

 フィヒテ
 彼はゲーテの解釋を自己の哲学に「事行」に捉え、無限に努力する行動的自我の哲学を展開した。フィヒテはカントの理性哲学を意志的行動的人間の哲学として発展させることを意図したのである。

 ヘーゲル
 行動的人間の論理を自覚化して弁証法論理—「精神」として主体の自己運動の論理とした。客体的自然の障害を克服して無限に努力する主体的人間精神の哲学を展開した。フィヒテの哲学を更に発展させたのがシェリングである。—無限に努力する行動の主体は、客体として現われてくる障害・抵抗を絶えず克服して進まねばならないが、この限り、それは永遠に達せられることはない—シェリングは主体と客体とは対立するが、芸術的直観においては、主客は統一せられる。又自然界と人間界は、客体的自然と主体的人間精神との根源的統一が存するという。これがシェアリングの「同一性哲学」である。
 このシェリングフィヒテの立場を総合したのがヘーゲルである。フィヒテは主客は対立すると強調するに比し、シェアリングは主体と客体との統一を強調する。ヘーゲルは、真実には対立と統一との統一でなくてはならぬ。これが眞実在である。実在は静止的でなく、活動的なものである。これを運動の過程としてみると、第一段階は、主体も客体も区別されない根源的な統一の段階である。第二段階は、この統一が分裂して主体と客体とが対立し矛盾が成立する段階である。第三段階は、対立した主体と客体とが統一され矛盾が克服される段階である。この第一段階を「即目的」と呼び、第二段階を「対目的」と呼び、第三段階を「即自且対目的」と呼んだ。第三段階は、第一段階と第二段階との総合である。ヘーゼルは自然界と人間界の一切に、その三段階の発展をみとめた。その発展が弁証法的発展であり、この発展の論理が弁証法的論理である。
 ドイツの理想主義時代にイギリスでは産業革命が進行し、フランスでは政治革命が起こった時代である。「自由・平等・博愛」の理想が、全ヨーロッパの国々の人心を強く捉えた時代である。

   (43 43' 23)

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