いしずえ

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柊原婦人会の歩み

四、終戦直後の生活

 「勝つまではガンバロー」のかけ声で、お互いに張り切ってきた。だが国敗れてみんな生きる気を失った。眼の前は真っ暗で国民は前途どう生きればよいのか、男も女もすべての人が、言うにいわれぬ気持ちであった。

 特に母は愛する夫や愛する子供を失い、そのやるせなさは言葉には表現できない毎日、途方に暮れるとはこの事だろう。今日も明日も続く哀れな姿こそ日本の母の姿であった。あたりを見ればすべて焼野ヶ原、いくら大声で泣いても再びあらわれない夫や子供達、ただ茫然とする母達の姿であった。

 しかし、女は強しという。男も女も生きるために焼跡に塩田を開き、作った塩をリックサックに詰めて、近い所では肝属地方、遠くは北九州や山口県まで出かけて物と交換して一家の飢えをつながなければならなかった。当時は他人の事を思う心はなく、ただ自分一家がどう生きるかが大事であった。

 その頃、みんなが防空壕住まいで、明けても暮れても西に東に食を求めてかけまわった。また、焼跡に家を作るにも木はなく、考えのあげくは官山に盗伐に行ったり、旧航空隊の焼け残りの木材を求めたりして雨露をしのいだ。

 一方子供達の教育の問題も深刻で、学校は全焼し、学ぶ施設がなかった。学校では、焼け残りの板べいを石垣に立てかけ、しばらくは教室がわりにした。

 戦後の婦人会は、当時の小組合のもと、その指導によって運営されたという。

   (43 43' 23)

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