いしずえ

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『童心殘筆』より

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津浪



眼を閉じると、私は容易に大正六年九月三十日の暴風雨の夜に返る。其の夜は満月に當って居た。其の前日、波静かな月島湾に臨んでゐる、新な私の家の二階の書斎で、私は来む宵の明月と大潮とを楽しんで、建てた許りの心地好い木の香を懷しみながら、友達に月を見に来いと書いて遣った。

生懀其の日は朝から土砂降りの雨となって、時が經って隨って、風さへ凄じく吹き募って来た。朝から来て居た伯母は暮近くまで躊躇して居たが、到頭覚悟して、渡しが止まらぬ中に早く帰らねばと、皆のひき留めるのを謝して、大久保へ帰って了った。客が帰ると、急に今迄の笑い聲がぴったり絶えて暴風雨の音が新しく耳につく。妹は激しい海鳴にぼつぼつ悸えて、帰って行った伯母を怨んだり、気遣ったりしてゐた。其の中に電燈がぼんやり點いて、我々は物足らぬ淋しい夕餉を認めた。