いしずえ

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『童心殘筆』より

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津浪



夜央過ぎ、私は書物を閉じて階下に降りた。玄関を通ると沓脱ぎの邊でドブリドブリと云う変な音が聞える。何だろうと障子を開けて見ると、此は如何に其處に脱いであった下駄が二三足水に浮んで、クルリクルリ廻轉して居る。さては水か、私は急いで次の間に寝て居る家人を起して、早く大切な物を持って二階へ上る様に、水が出たらしいと命じた。母が気を利かせて、玄関の瓦斯を點けた。すると殆んど二分と經たぬ中に、俄に外の面の暗に悲鳴する人の叫びが聞えたと同時に、誰かゞ門を亂打して、「安岡さん早く逃げなさいよ、~津浪ですよ、津浪ですよ、精米所へ精米所へ……」と叫んだ。答える間も無く、其の人々はざぶりざぶりと音させて逃げてゆくらしい。其時始めて凄じい音をたてゝ陸を流れる海水に気が注いた。これでは到底老人や女を逃がすわけにもいかん。何!家の二階なら大丈夫であろうと私は決心して、一生懸命そのまゝ運べるだけの物を階上の客間に運び上げた。