いしずえ

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柊原婦人会の歩み

二、婦人会の主な活動

 婦人会の一年間の主な行事は、学校参観、学芸会、運動会、作品品評会等であったようです。大正時代は、月一回必ず会合がもたれ、運動会ではいつも線香とぼし競争が婦人会の競技種目であった。

 作品の品評会は校区や村内のものがあつまって手作りなら何でも良く、農産物では乾燥大根等まであったようです。

 柊原の農業は、三反百姓と呼ばれ、作物はいつも栗、麦が主で、それも自分の家の一年間の自給が出来る家は少なく、それでも一年中働かなければ一家が食べていくには困難であった。今一つは、どこの家庭でも子供が多く両親は子育てに一生懸命であったが、子弟を上の学校に通わせる力はなかった。

 その中でも母達は苦労の連続で、苦しい生活の中でも婦人会員として俗に言う人並みにみんな会合に出席していた。

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人類思想の歴史と未来

柊原婦人会の歩み

一、昔の婦人会(思い出)

 大正から昭和の初年代の校区婦人会について記憶をたどりながら記述すると、婦人会の発足は不明であるが、大正年代、婦人会が学校であり、その日は母が朝早くから髪を整えたり歯を黒く染めたりする姿を思い出す。

 昔の婦人会は男子が二人顧問役で、会合は殆ど夜間に行われており、男の人が高張提灯をさげて訪れ、会合のある家に挨拶されて、その後会員のお母さん方が子供を連れて出席していた。

 今では、いつも講師の先生が見えて、色々な良いお話をされていたようです。

 一つの例として、上原先生とか郷原先生とかが来られ、二人共お話の上手な先生で、会員のみんなが感激する場面も幾つもあった。特に上原先生は浪曲が上手で忠臣蔵とか石童丸とかをうたわれるとみんなが手をたたいて喜んだ姿が今も思い出となっている。

婦人会は今も昔も子育てのこと、特に家庭教育が婦人会の中心的課題であったようです。

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中国文化

 紀元前一四〇〇年頃黄河の支流河南以西の高原地帯に農耕文化が開かれた。やがて下流にわたる華北平原に展開されるに至った。黄河の氾濫は河筋をたえず変え、治水は眞に困難なものであったに違いない。黄河下流にわたる華北平原に展開された農業の豊かな生産力の上に中国最初の都市文明が姿を現した。それは殷の青銅文明である。殷王朝の支配者は、その祖先神として天帝を祀った。戦いには戦車を用いた。殷王朝の始祖は華北農耕地辺の半猟半牧の部族で、彼らは華北地帯を武力によってこの農耕地帯に侵入したものである。彼らはユーラシア高原地帯の遊牧民の影響を受けていた部族である。彼らの最も崇めたのは祖先の天帝神であるが、同時に華北農耕地帯の神々の祭りも主宰した。前者が宗廟後者が社稷の祭りである。天と地、陽と陰との二つの原理の相対性はこの段階で示されており、以後、中国の思想史を規定するものとして成長したのである。

 三皇五帝の上古の伝説時代は別として、紀元前1100年頃、殷の紂王の軍隊は周の武王の叛乱軍によって破られ、紂王は宮殿に火を放って自殺し、ここに殷王朝は滅亡し、周王朝が始まった。周族は、黄河上流の西北方の山地から渭水のほとりに進出し、中原の文化に魅せられ東へ東へと進んで、遂に殷王朝を倒して覇権を握ったものである。周王朝は自己の覇権掌握を正当化するため殷周革命、易性革命思想を創造した。それによれば殷の王朝は、天の命を受けて民を支配したのであるが、紂王に至って、神の祭祀をなおざりにし、暴虐な政治を行ない、贅沢な生活にふけったため、天の命を失った。そこで周は、天の命をうけて紂王を討ち、殷にかわって天下を支配することになった。王たるものは徳行を慎み、礼を尊ばなくてはならない。これによって、天命の長久を期待することができる。これによって周の支配体制は華北平原を中心とする漢民族の農耕文化共同体を数百年間維持発展したのである。

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人類思想の歴史と未来

柊原青年団の歩み

十、農村の過疎化

 日本の産業が復興するにつれ、労働力がますます不足し、そのため、都市への若年労働者の流出が多くなり、中学校卒業生の金の卵といわれ、卒業と同時の男も女も都会へ出ていった。

 一方、高校や大学への進学者も暫時増加し、進学のために出郷する者も増えていった。

 反面農村に残る者は少なく、農業高校を卒業しても都会へ出向き、農家では後継者問題に困るようになった。一方国内産業構造の変化によって、郷土にある人々も農業から他産業への転職も多く、専業農家は減少しつつある現状である。

 今日の生活は、金がなければ生活できない社会で、同じ地区でも種々の職業に就労し生計を営んでいる。

 従って、住民の意識の変化に伴い、近隣の心の結びつきも薄く、隣の人は何する人ぞで、人は人、自分は自分という考え方で暮しているように思われ、昔のような青年団をのぞむことは無理と考えられる。

 もうすぐ二十一世紀となる。働き盛りの若者はよそへ出て、後に残っているものは高齢者だけで、郷土の山野は雑草が茂るばかりでは残念で、共に英知を出して郷土に光を見出したいものである。   (梶原)

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柊原青年団の歩み

九、教育制度の改革と青年団

 昭和二十二年、新しい教育制度によって、これまでの国民学校から小学校となり、その上に新制中学校がおかれ、義務教育も小・中学校九ヶ年となった。また、中学校の上に新制の高等学校が設置された。

 しかし、その頃は義務教育までは受けても高等学校まで進む数は経済的理由等によって極めて限られていた。

 昭和二十六年十月にルース台風が来襲し、校区内は甚大な災害を被り、ますます生活苦に悩まされた。

 しかし、当時の若者達は将来を考え、勉強の施設や機会を欲していた。町でも社会教育の重要性を認識され、垂水小学校校庭の武道館跡に垂水町立公民館が設立された。柊原にはルース台風の翌年、中学校の古校舎を譲り受け、柊原分館として設立された。

 この分館が青年達の寄合の場となり、一部の人は通信教育(鶴丸高校)を受け、高校卒の資格をとった人も多く、今は、それ等の人々も壮年層となり、立派な一家の経営者、また、社会的には地区の中堅となって活躍している。

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柊原青年団の歩み

八、青年団の再建

 やがて人々は敗戦の虚脱状態からぬけ出し若い人達も祖国再建の目標に向かって、夜毎の話し合いの中から青年団の必要性が高まり、各地で青年団が組織され、活動も活発化していった。

 昭和二十五年朝鮮戦争が起こり、日本は軍需景気で、都会は活気づき、人手が不足し、人手の要求が農村にも求められてきた。

 柊原でも、都会への出稼ぎ者が多くなり、時には大きな専業農家の子弟でも都会に働きに出る人もあった。

 一般に柊原からの出郷者は、大阪、尼崎等が多く、圧延関係の工場で働く人も多かったという。

 しかし、出稼ぎ者の多い時でも、故郷に残って農業を営む人も多かった。

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柊原青年団の歩み

七、終戦と復員

 敗戦という戦争の結果、生き残った者も裸一貫で故郷の土を踏み、帰郷しても寝る家も食べる物もなく、途方にくれる日々が続いた。

 国破れて山河ありで、同じ所で生まれ育った者同志の深い人情が生きるための、頼みの綱であった。

 敗戦後は、国民のすべてが魂を失った姿で、日々食を求めて買出し等で命をつないだ。

 焼跡に塩田を開いて製塩し、若い人々は県内は勿論、遠く北九州まで塩をかついで買い出しに出かけ、食糧を得て一家の生活を維持した。

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