いしずえ

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ギリシャ思想

 神話的世界観が思想・哲学として形成されてゆくためには、合理的思考法が必要である。しかし人間の生活は多くの非合理性を含み、非合理的な諸条件の中で営まれるものであって、合理的思考法は、非合理的理法を明らかにし、それを排除し、押し退けるのでなく、それを補い救い上げるのである。人知の歴史は、非合理性に対する合理性の戦であると言うよりは、非合理性のうちにおける理法を、合理性が補い救いあげてより正しい思考法を作り上げる歴史である。この合理性と不合理性との関係は知性(理性)と生命(本能)との関係である。知性(理性)と生命(本能)との関係は、管理と生産の関係である。管理者は生産大衆の生活を正しく管理することに於いて権力支配者たりうるのであって管理能力を失えば権力支配者は権力を失ってしまう。支配者は権力だけでは民衆の支持を失い、国民の生産力を破壊し、革新勢力によって打倒されることになる。

 国民共同体を正しく管理する原理は、公正なる合理的正義と生命的愛情とがなければ国民共同体を正しく管理することはできない。

 支配と被支配の関係は、力の対立関係である。こうした対立関係の進行のなかで、管理と生産との関係が進行しているのである。しかし生命の生産的創造力は非合理的なものであって、知性の指導がなければ忽ち本能的展開を始める。調和のある共同生活は知性の作用を必要とする。知性もまた生命的作用の感性(愛情)を欠くならば、管理は動脈硬化に陥り行詰ってしまうものである。管理は常に生命的創造力を基本とすることに於いて成立するものである。

 支配権力が崩壊するのは、外的または内的圧力によって奪われる以前に既にその支配権力は管理能力を失い、内部的に崩壊しているというのが通例である。

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人類思想の歴史と未来

柊原青年団の歩み

六、戦時下の青年団

 昭和十二年日華事変が勃発し、そのため国内でも軍需産業が盛んになり、今まで農業をしていた者も都会への流出が多くなった。

 また、軍では一般徴募兵では軍人の不足から陸海軍共多くの志願兵を採用した。従って農村では徴兵、志願兵が多く、若者達が少なくなっていった。

 戦争が長引くにつれ、国は総動員令等を発令し、農村でも男は殆んど徴兵され、最後は女子も挺身隊の名のもとに軍需工場などに駆り出され農村には人影が少なくなっていった。

 戦争の激化するにつれ、多くの将兵が戦死し、柊原でも出征した多くの若者が命を失っていった。

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柊原青年団の歩み

五、青年団活動

 大正十三年、垂水村は垂水町となり、教育の面でも特に社会教育のための施設整備が遅れていた。従って、柊原校区でも支部毎に(上支部=鬼山ー並松)(中支部=上比良ー下中村)(下支部=上市之園ー下)、集会場を作り、そこを青年達の育成の場、活動の拠点としたが、これ等の施設も戦災で焼失した。

 昭和の初期から同十五年頃までは、青年団の組織も整い、よく機能し、年一回の校区青年団運動会や奉仕作業、町青年団連合運動会等その活動も活発であった。

 また、組織も下部は集落青年団から、町、県、全国と連なる連合組織と変遷していった。

 これまで行われていた体育行事等も次第に軍事色の濃い活動となり、垂水でも小学校卒業後は、週一回軍事訓練を受けるようになり、内容は主に軍事訓練と一般教養の科目が課せられた。

   (43 43' 23)左記の暗号については、当wiki真理学研究所を御照覧下さい。

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柊原青年団の歩み

四、消防と夜警

 柊原は昔は茅葺屋根がほとんどで、火災が起こると大火になることが多かった。

 柊原では大正元年にも大火があり、人々は火災の恐ろしさをじかに感じ、火災を出さない方法はないかと考えた。その為には、お互いが火の用心をすることが大事であるということから、夜間に集落内の見廻り役を若者達が引き受けたのが夜警の始まりという。

 若者達は、いざ火災だという声と共に飛び出して火元にかけつけ火消しに一生懸命であった。

 その後、消防団が生まれ、独立して消火に当たった。

 このように、青年会の勧めは、自分の集落から火災を出さない、そのため、夜警が重要な任務と考えられるようになり、どの集落も三坪程の夜警舎(番小屋)を建てて当番を決め、夜間に二・三回集落中を見廻った。

 青年会には、学校を卒業するとすぐ加入しなければならない規制があった。青年会の加入年限は、高等科を卒業した十五・六歳から二十五歳頃まで、郷土にいる男子すべてが参加していた。

 夜警舎(番小屋)は終戦後二十五・六年まで残っていた所もあったが、時と共に自然と姿を消していった。

 それは、昭和二十七年日本中社会教育が重視され、地区公民館づくりが始まり、各集落の夜警舎を廃止して、一ヶ所に若者を集めて教育や催しを行う等の理由で夜警舎がなくなり、また、防火の任務は自衛消防団が独立して活動するようになり、夜警の必要もなくなったと思われる。

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ギリシャの文化

 ギリシャ民族が、南ロシアからギリシャの地に侵入して来たのは紀元前一千年を遡る時代のことである。彼らはゼウスのような男神を崇め、父系的父権組織をもった遊牧民であった。彼らがギリシャに侵入して来たとき、エーゲ海には先住民がいて、クレタ島を中心とするミノア文明は、紀元前二千年以前から栄えていた。この文明の担い手は、黒い髪と黒い瞳をもち、母系的母権的習俗をもち、豊饒と生殖の母神を崇めていた海洋民族である。彼らはエジプト、バビロニアと交渉があった。ミノア文明はクレタ島以外にシシリー島やスペイン、エーゲ海を制圧し、ギリシャ本土に影響を与えていた。この文明はバビロニア、エジプトの文明と共に地中海々域文明の一環をなすものであった。

 ギリシャ人は、紅毛碧眼の蛮族として北方からギリシャ半島に現われ、ミノア文化の影響を受けてミュケナイ文明をつくった。この文明は紀元前千六百年以来姿を現し、強大となった。前千二百年ミノア文明は衰微沈滞し、その頃北方から地中海海域文明に対する大きな民族移動がおこり、その一環としてドーリア族が嵐のようにギリシャ半島に侵入しミュケナイ文明の支配者たちを打倒した。この混乱と闘爭の時代にトロアの争奪戦がおこった。

 ギリシャ人は本土からエーゲ海に乗り出し、盛んに進出を開始した。小アジアの沿岸から、西南はイタリア及びシシリー島の沿岸、さらにスペインの沿岸まで進出した。このような地中海沿岸におけるギリシャ植民都市の建設は、ほぼ前六世紀に至る頃までに完成された。ギリシャ民族発展の先頭に立ったのは、小アジア沿岸のイオニア族の植民地都市であった。彼らが崇めるオリュンポスの神々は、やがて全ギリシャ民族に崇められ、民族的同胞感を培かったのである。曾ての野蛮な神々や、乱暴な武将たちは浄化され理想化され、また先住民の豊饒と生殖の女神たちも、オリュンポスの神々の伴侶として迎え容れられその呪術的な密儀や供犠は、新しい装いの下に、ギリシャ社会主義を規定するものとなった。そしてそれは前六世紀以降のギリシャ哲学の中に反映されている。支配層の現世主義的合理的思考法と農耕に勤しむ民衆の生命主義的神秘的観念とは、ミレトス派以来のギリシャ哲学思想の展開の中を流れている。

   (43 43' 23)左記の暗号については、当wiki真理学研究所を御照覧下さい。

         

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人類思想の歴史と未来

印度思想

 前八世紀頃まで、三ヴェーダ(リグ以外のサーマ、ヤジュル、アタルヴァ)本集も成立した。アタルヴァ・ヴェーダは呪法を主とするもので、先住民族の土着文化と密接な関係がある。これを主管する祈禱僧は祭式全般を総監する祭官たる位置が与えられた。このバラモン祭官を中心に、バラモン階級が成立した。印度文化の形成には先住民の農耕文化が大きな役割を演じている。紀元前七世紀頃ウパニシャッド哲学をはじめとして、唯物論懐疑論ジャイナ教や仏教がこうした背景のうちに現われてくるのである。

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人類思想の歴史と未来

柊原青年団の歩み

三、学舎の創設

 明治十一年、柊原小学校が創立され、同三十四年に第一代の専任校長として真川校長が花岡村より赴任された。

 真川校長は、当地が前任地に比べ、普通教育、社会教育共におくれていることに気付かれ、特に学校を卒業した青少年の将来を考え、青少年教育の道を模索した結果、夜学者を設けて若い人々を教育することとした。

 そのため、二ヶ所に夜学舎を建て、その名を「行余学舎」及び「拳膺学舎」とした。場所は柊原方面は江良迫、軽砂方面は並松に建てられたが、経済上の都合で明治三十六年四月両舎を合併し、行余学舎とした。

 科目は修身、国語、算術等で教師は柊原小学校の教員が一名ずつ輪番で出席し、毎夜四十数名の舎生が出て学んだ。

 また、教科の外に、弁論大会があり、時には花岡村の人々と弁論大会を行ったこともあると古老の話しがある。

 行余学舎は明治からずっと続けられ、大正の初期頃まで上比良の一角にあって、この学舎に学んだ人々が、大正から昭和初期にかけて柊原青年層の中心的役員として活躍した。

 このように柊原の青年も個人的から集団的に結束することに目覚め、やがて二才会から青年会へと進んで行った。

 また、この時代の若者も、昼間は家業に励み、夜は一ヶ所に集まって、個人のこと、社会的なこと等夜の更けるまで話し合った。

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