いしずえ

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第四章 中世の思想

  中世のキリスト教

 元来ローマは、國教に反対し有害でない限り極めて寛大であった。然るにキリスト教は他宗教と妥協せず、殊にローマの国教及び皇帝崇拝教に対して極力反抗し、且つ女神がローマの祭壇に焼香することを拒絶したため多くの皇帝によって迫害された。

 紀元一世紀から二百五十年間キリスト教徒はローマ帝国の到るところで猛烈な迫害を受け、数千人が極刑に処せられた。彼のネロ・ドミチアヌス両帝を始め、人類愛を称えたアウレリウス帝、殊にヂオクレチアヌス帝は教徒に厳罰を加えるのみか寺院教会を破壊し、聖書を焼き捨てた外、種々の方策手段を講じて、キリスト教の断絶を計った。にも拘らずますます諸方に蔓延するに至った。それは次の理由によるものであった。

  1. 使徒を始め信者等が如何なる厳刑を科せられても、泰然としてこれを甘受し、正義と人類愛との信仰のために、一身を犠牲に供して、毫も顧慮しなかったことは、痛く世人を感動させ、これを信仰することが、如何に崇高であるかを知らせ、却って信者を増すことになった。
  2. 二、三世紀の頃から聖書に関する研究が大いに進み、ために教義に関する知識が博められ、これが公布の誘因となった。
  3. コンスタンチヌス帝はキリスト教を信仰し、三一三年勅令を出して国内の人民に信仰の自由を許し公布に努力した。
  4. キリスト教ギリシャ哲学思想が結合するに及んで、その内容が一段と力強いものとなり、三二五年宗教会議を開き、三位一体説が正統派として確認されるに至った。爾後益々発展することとなった。
  5. テオドウス帝は三九一年キリスト教がローマの国教たることを承認し、国民をして悉くこれを信仰させ、在来の多神教その他部族の宗教を禁止した。

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