いしずえ

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第四章 中世の思想

  新約聖書

 旧約聖書ユダヤの神と新約聖書(ヨーロッパ)の神も同じエホバであるが同一神と思えない程違う。それはユダヤの予言者モーゼとユダヤ思想とギリシャ思想の合体神キリストとの違である。

 キリストはダニエルの予言書を読んで、神の子であるという自覚をした。自己の使命を悟り、自己を発見したのである。

 キリストの伝導生活は僅か三年間に過ぎなかった。この極めて短い宗教生活に於いてなしとげた事実は、実に驚くべきものであった。新約聖書の中には仏教などに見るような深い思想や高い教理はないが、最大宗教として君臨している理由は、その根底にキリストの偉大なる人間性と人格が横たわっているからである。即ち吾は神の子である。吾は救世主であるという確固たる信念、偉大な抱負は、磔(はりつけ)をもって脅(おびや)かしても動じなかった。

キリストはアブラハムモーゼ以来の凡ての予言を一身に引受けて之を現実に実現しようとした。これまでのユダヤの予言者たちは救世主を未来に求めておった。キリストは自分自身がその実現者であると公言した。その自信がキリスト教の偉大なところであり、キリスト教を世界最高の宗教にした理由である。イエス・キリストは真に偉大な救世主であった。この偉大さのために、結果から推論して、神の子に適わしい事実を創造せねばならなかった。

新約聖書の作者はキリストをエホバの子にせねばならなかったろうし、彼自身多くの奇蹟を創作せねばならなかったに違いない。しかし、キリストの偉大さはそんなところにあるのではない。彼自ら「吾は神の子である」「救世主である」と自覚し宣言して立上ったところにあるのだ。彼は一切の予言を一身に引受け、救世を未来に求めず、自ら救世主であると叫んだのである。そのイエス・キリストの教えと態度と精神は、

  1. 洗礼を受け神懸りとなったイエスは「見よ天が開け神の御霊が、鳩のように自分の上に降って来る」と叫んだ。また天から声があって「これは私の愛する、私の心にかなう者である」と。イエス・キリストは神の自覚を持つに至った。
  2. エスは四十日断食をした。衰弱し空腹になったところへ悪魔(サタン)が現れ「汝がもし神の子であるならこの石をパンにしてみよ」と云った。そこでイエスは「人はパンのみで生きるものではない、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである」と答え、心の糧(かて)の方がより重大であることを強調した。更に悪魔はイエスを山の頂上に立たせて「神の子であるなら、ここから下へ飛び下りてみよ、神は御使たちに命じて汝を手で支えるであろう」これにイエスは「聖書には主たる貴方の神を試してはならないと書いてある」と応酬している。今度は高い山に連れて行き、世の全ての国々とその栄華を見せてから云った。「もし汝がひれ伏して私を拝むなら、これらのものを皆与えよう」これを聞いてイエスは「悪魔よ退け、主なる神を拝し、唯一の神のみに仕えよと神は教えている」と叫んだ。神懸りとなったイエス・キリストは日が経つに従って絶大なる自信をもって「悔い改めよ、天国は近づいた」と説きペテロを初めヤコブヨハネ等の弟子を率い、国中を歩き廻って、諸会堂で教え、福音を宣べ伝え、難病で苦しんでいるものを癒した。その評判はシリア全土に拡がり、各地から病と苦しみと悩みをもつ大群衆が押し寄せて来た。
  3. 山上の垂訓 ⑴「心の貧しい人たちは幸いである。天国は彼等のものである」 ⑵「悲しんでいる人たちは幸いである。彼らは慰められるであろう」 ⑶「柔和な人たちは幸いである。彼らは地を受けつぐであろう」 ⑷「義に飢え渇(かつ)えている人たちは幸いである。彼らは飽き足りるようになるであろう」 ⑸「哀れみ深い人たちは幸いである、彼らは哀れみを受けるであろう」 ⑹「心の清い人たちは幸いである。彼らは神を見るであろう」 ⑺「平和をつくり出す人たちは幸いである。彼らは神の子と呼ばれるであろう」 ⑻「義のために迫害された人たちは幸いである。天国は彼らのものである」   これはモーゼの十戒に匹敵するものであるが、ここには妬み怒り復讐憎しみはない。慈しみ恵み愛が感ぜられる。彼は「私は法律や予言者を廃するために来たのではなく、成就するために来たのである」と完成のための改革即ち宗教改革を宣言している。彼はモーゼ程劇しくはないが、しかし厳しかった。即ち「右の目が罪を犯したら抜き取れ」「罪の手は切り捨てよ、命を捨てるよりはまだましである」「右の頬を打たれたら左の頬も打たせよ」「下着をとる者には上着をも与えよ」「敵を愛し迫害する者のために祈れ」「神は善人悪人を問わず太陽を与え雨を降らせる」と述べている。
  4. 善行は裏で行うのである。「義を行うに人前でするな」「施しをする時には、右の手のしていることを左の手に知らせるな」「善行は隠れてするものである。神は全てを知っているのだから」「祈りはくどくどするな、神は祈る前からそれを知っている」「人の過誤(あやまち)は許せ、然らば神は貴方を許すであろう」「断食は人目のないところで修行せよ」「宝を蓄えるなら盗人に脅かされる心配のない天に蓄えよ」「目は体の灯である。目が澄んでいれば体も明るい、目悪ければ体も暗い」「神と富とに兼ね仕えることは出来ない」   「何を飲もうか、何を食べようかと自分のことで思い煩い、何を着ようか、自分の体のことで思い煩い、生命は食物にまさり体は着物にまさるではないか。空の鳥を見るがよい。蒔くことも刈ることもせず倉に取り入ることもしない。それだのに神は、彼らを養っていて下さる。ーー野の花は働きもせず、紡ぎもしない。しかし、栄華を極めたソロモンよりも着飾っているではないか」
  5. 裁く勿れ 「人を裁くな、自分が裁かれないためである」「聖なるものを犬にやるな、真珠を豚に投げてやるな」「求めよ、そうすれば与えられるであろう、捜せよ、そうすれば見い出すであろう。叩けよ、そうすれば、門は開かれるであろう」「滅びに到る門は大きくその道は広い。命に到る門は狭くその道は細い」「偽予言者を警戒せよ、彼等は羊の衣を着ているが心の中は強欲な狼である」「求めるならば先ず与えよ、然らば与えられるであろう」
  6. エスの力と信念、その実践布教。彼が下山すると救いを求めて夥しい群衆が集まってきた。病める者、悪霊に取り憑かれた者、これらの悉く癒やして救ってやった。一人の律法学者がどこまでもお供したいと願った時、イエスは「狐には穴があり、鳥には巣がある。しかし人の子には枕する所がない」と退け、また、一人の弟子が「主よ、まず父を葬りに行かせて下さい」と頼んだ時「私に従いて来い、その死人を葬ることは、死人に任せておきなさい」   彼は一般人に対しては寛容であったが、弟子に対しては非常に厳しかった。或る時海上で暴風雨に遭った。弟子等は恐れ助けを求めて叫んだ。その時イエスは「何故恐れるのか、信仰の薄い者等よ」と叱り、立上って海を制した。弟子等は、その奇蹟に驚いた。「お前等に芥子粒ほどの信仰があるならが、これ位のことは何でもないことだ」
  7. 神の愛 取税人や罪人などが集まって来て同席し会食した時、弟子が「どうしてこれらの者と同席するのか」と咎めた。するとイエスは「医者の必要なのは病人である。私が好むのはあわれみであって犠牲ではない。——私の招くのは罪人であって、義人ではない」と答えた。「自分の言葉が自分を裁く」「心からあふれることを口が語るのである」「自分の言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によって罪ありとされる」「邪悪で不義な時代は証を求める」人はそれ自らの言葉によって裁かれる。

 イエスの母と兄弟たちが、彼に会いに訪ねて来た時、これを知らせてくれた人に「私の母とは、兄弟とは誰のことか。——ごらんなさい。ここに私の母兄弟がある。神の心を行う者は誰でも私の母であり兄弟姉妹である」
 「悟りのない者は道端に零れた麦であり、石の上に蒔かれた者は直ぐ言葉を受ける、また根がないので、困難迫害が起こると直ぐ躓く人である。荊(いばら)の中に蒔かれた者は直ぐ言葉を受ける人、また根がないので、困難迫害が起こると直ぐ躓く人である。荊の中に蒔かれた者は、世の心遣いと富の惑しとが御言を塞ぐので実を結ばない人である、良地に蒔かれた者とは御言を聞いて悟り実を結び百倍の収穫を得る人である」
 イエスは五個のパンと二匹の魚を五千人の群衆に増やして満腹させたり、海上を歩いたり、手を触れただけで病気を治したり、多くの奇蹟を現した。信仰があれば不可能はないことを現示した。
 また「口に入る者は手を汚すことはない、却って口から出るものが人を汚す」「口から出るものは悪い思い、即ち殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、諂(へつらい)などである」
 「世間では私をヨハネだと言い、或いはエリア、エレミヤだと称しているが、ペテロの云う通り、私は救世主(キリスト)である。そのためエルサレムに行ったら、長老、祭司長、律法学者たちに苦しめられ、殺されるに違いない。そして三日目には蘇る」
 「誰でも私について来たいと思うなら、自己を捨てて十字架を負うて従って来い。自己の命に捉われるものは自分の命を失い、私(キリスト)のために命を捨てるものは永遠の命を得るであろう。例え全世界を得たとしても自己の生命を失ったら何の得になろうか」
 夫婦について「二人はふたりでなく一体である。神が合わせられたものを人は離してはならない。再婚は姦淫である」
 永遠の生命を得るためには「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな、父母を敬え――自分を愛するように隣人を愛せよ持物全部を貧しい者に施しなさい。そうすれば天国に宝を蓄えることになる。――富んでいる者が天国に入ることはラクダが針の穴を通るよりも困難である。――救世主(キリスト)のために家も親も兄弟も財産も捨てた者は、その幾倍をも受け、永遠の生命を受継ぐであろう」

 8. キリスト最後の行動――イエスは神の言葉を守らぬ信仰の薄い、神を利用している神の寄生虫たち、即ち祭司長や法律学者や宮の境内で商売している商人を征伐するためエルサレムに行った。彼は「お前たちは、この神域を強盗の巣にしている」と叱り、腰掛を引っ繰り返した。祭司長や法律学者等は立腹したけれども、イエスには群衆の支持があるので手が出せない。ここでイエス最後の審判の日の近づいたことを宣言する。また二日後、十字架に掛けられることを予言するのである。
 予言した通りイエスは捕えられた。その時イエスは「貴下たちは私を捕えるのに、強盗に手向かう様な剣や棒を持って来たのか」「剣をとる者は剣で滅ぶ」と叫び、そして最後に十字架上で「エリエリ・レマサパクタニ(神よ私を見捨て給うのか)」を一期として昇天したのである。
おそらくイエスは死にたくなかったに違いない。それは死に臨んでの彼の言葉がよくその事情を物語っている。だからこそ救いのために死をかけたのであろう。イエスは奇蹟を好まなかった。しかし、奇蹟と利益を求める民衆を救済するには、そうするより外方法がなかったのだ。だが奇蹟に次ぐ奇蹟をもってしても飽くことを知らぬ民衆は満足しなかった。そこでイエス・キリストは死をもって民衆に迫ったのである。従ってこの死は後世キリスト教徒が言うような全人類の罪を一身に負うて、その罪を贖(あがな)わんために、十字架上に上ったのではなく、民衆の反省と自覚を促すために行ったものであると解するのが本当である。

   (43 43' 23)

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