いしずえ

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『童心殘筆』より

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津浪



朝の中に水はどんどん退いた。人々はザブザブ水を渉って町を往来した。忽ち食う物がない。水がない。慘澹たる破壊の中に人は犇きあって居る。然るに昔気質の祖父は私の書斎で悠然として剃刀を磨ぎ出した。そして妹に鏡を命じて、やがて綺麗に鬚を剃り終ると、今度は硯に向って長々と手紙を書き出した。とても音信は通じ様も無いのだが。

私は足を傷せぬ様、充分に気をつけながら、ザブリザブリと幾つかの町を横ぎって隅田川の岸に出て見た。恐ろしく水嵩が増して、凄まじい速さで濁流滔々と流れてゐる。

對岸には人が黒山の様に集って居るが、一衣帯水の水を渡り様も無い。其の前夜、市中に泊って此の不測の災難に家族の安否を気遣いながら、足も地に着かぬ人も居よう。