いしずえ

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中国文化

 紀元前一四〇〇年頃黄河の支流河南以西の高原地帯に農耕文化が開かれた。やがて下流にわたる華北平原に展開されるに至った。黄河の氾濫は河筋をたえず変え、治水は眞に困難なものであったに違いない。黄河下流にわたる華北平原に展開された農業の豊かな生産力の上に中国最初の都市文明が姿を現した。それは殷の青銅文明である。殷王朝の支配者は、その祖先神として天帝を祀った。戦いには戦車を用いた。殷王朝の始祖は華北農耕地辺の半猟半牧の部族で、彼らは華北地帯を武力によってこの農耕地帯に侵入したものである。彼らはユーラシア高原地帯の遊牧民の影響を受けていた部族である。彼らの最も崇めたのは祖先の天帝神であるが、同時に華北農耕地帯の神々の祭りも主宰した。前者が宗廟後者が社稷の祭りである。天と地、陽と陰との二つの原理の相対性はこの段階で示されており、以後、中国の思想史を規定するものとして成長したのである。

 三皇五帝の上古の伝説時代は別として、紀元前1100年頃、殷の紂王の軍隊は周の武王の叛乱軍によって破られ、紂王は宮殿に火を放って自殺し、ここに殷王朝は滅亡し、周王朝が始まった。周族は、黄河上流の西北方の山地から渭水のほとりに進出し、中原の文化に魅せられ東へ東へと進んで、遂に殷王朝を倒して覇権を握ったものである。周王朝は自己の覇権掌握を正当化するため殷周革命、易性革命思想を創造した。それによれば殷の王朝は、天の命を受けて民を支配したのであるが、紂王に至って、神の祭祀をなおざりにし、暴虐な政治を行ない、贅沢な生活にふけったため、天の命を失った。そこで周は、天の命をうけて紂王を討ち、殷にかわって天下を支配することになった。王たるものは徳行を慎み、礼を尊ばなくてはならない。これによって、天命の長久を期待することができる。これによって周の支配体制は華北平原を中心とする漢民族の農耕文化共同体を数百年間維持発展したのである。

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人類思想の歴史と未来

柊原青年団の歩み

十、農村の過疎化

 日本の産業が復興するにつれ、労働力がますます不足し、そのため、都市への若年労働者の流出が多くなり、中学校卒業生の金の卵といわれ、卒業と同時の男も女も都会へ出ていった。

 一方、高校や大学への進学者も暫時増加し、進学のために出郷する者も増えていった。

 反面農村に残る者は少なく、農業高校を卒業しても都会へ出向き、農家では後継者問題に困るようになった。一方国内産業構造の変化によって、郷土にある人々も農業から他産業への転職も多く、専業農家は減少しつつある現状である。

 今日の生活は、金がなければ生活できない社会で、同じ地区でも種々の職業に就労し生計を営んでいる。

 従って、住民の意識の変化に伴い、近隣の心の結びつきも薄く、隣の人は何する人ぞで、人は人、自分は自分という考え方で暮しているように思われ、昔のような青年団をのぞむことは無理と考えられる。

 もうすぐ二十一世紀となる。働き盛りの若者はよそへ出て、後に残っているものは高齢者だけで、郷土の山野は雑草が茂るばかりでは残念で、共に英知を出して郷土に光を見出したいものである。   (梶原)

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柊原青年団の歩み

九、教育制度の改革と青年団

 昭和二十二年、新しい教育制度によって、これまでの国民学校から小学校となり、その上に新制中学校がおかれ、義務教育も小・中学校九ヶ年となった。また、中学校の上に新制の高等学校が設置された。

 しかし、その頃は義務教育までは受けても高等学校まで進む数は経済的理由等によって極めて限られていた。

 昭和二十六年十月にルース台風が来襲し、校区内は甚大な災害を被り、ますます生活苦に悩まされた。

 しかし、当時の若者達は将来を考え、勉強の施設や機会を欲していた。町でも社会教育の重要性を認識され、垂水小学校校庭の武道館跡に垂水町立公民館が設立された。柊原にはルース台風の翌年、中学校の古校舎を譲り受け、柊原分館として設立された。

 この分館が青年達の寄合の場となり、一部の人は通信教育(鶴丸高校)を受け、高校卒の資格をとった人も多く、今は、それ等の人々も壮年層となり、立派な一家の経営者、また、社会的には地区の中堅となって活躍している。

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柊原青年団の歩み

八、青年団の再建

 やがて人々は敗戦の虚脱状態からぬけ出し若い人達も祖国再建の目標に向かって、夜毎の話し合いの中から青年団の必要性が高まり、各地で青年団が組織され、活動も活発化していった。

 昭和二十五年朝鮮戦争が起こり、日本は軍需景気で、都会は活気づき、人手が不足し、人手の要求が農村にも求められてきた。

 柊原でも、都会への出稼ぎ者が多くなり、時には大きな専業農家の子弟でも都会に働きに出る人もあった。

 一般に柊原からの出郷者は、大阪、尼崎等が多く、圧延関係の工場で働く人も多かったという。

 しかし、出稼ぎ者の多い時でも、故郷に残って農業を営む人も多かった。

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柊原青年団の歩み

七、終戦と復員

 敗戦という戦争の結果、生き残った者も裸一貫で故郷の土を踏み、帰郷しても寝る家も食べる物もなく、途方にくれる日々が続いた。

 国破れて山河ありで、同じ所で生まれ育った者同志の深い人情が生きるための、頼みの綱であった。

 敗戦後は、国民のすべてが魂を失った姿で、日々食を求めて買出し等で命をつないだ。

 焼跡に塩田を開いて製塩し、若い人々は県内は勿論、遠く北九州まで塩をかついで買い出しに出かけ、食糧を得て一家の生活を維持した。

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ギリシャ思想

 神話的世界観が思想・哲学として形成されてゆくためには、合理的思考法が必要である。しかし人間の生活は多くの非合理性を含み、非合理的な諸条件の中で営まれるものであって、合理的思考法は、非合理的理法を明らかにし、それを排除し、押し退けるのでなく、それを補い救い上げるのである。人知の歴史は、非合理性に対する合理性の戦であると言うよりは、非合理性のうちにおける理法を、合理性が補い救いあげてより正しい思考法を作り上げる歴史である。この合理性と不合理性との関係は知性(理性)と生命(本能)との関係である。知性(理性)と生命(本能)との関係は、管理と生産の関係である。管理者は生産大衆の生活を正しく管理することに於いて権力支配者たりうるのであって管理能力を失えば権力支配者は権力を失ってしまう。支配者は権力だけでは民衆の支持を失い、国民の生産力を破壊し、革新勢力によって打倒されることになる。

 国民共同体を正しく管理する原理は、公正なる合理的正義と生命的愛情とがなければ国民共同体を正しく管理することはできない。

 支配と被支配の関係は、力の対立関係である。こうした対立関係の進行のなかで、管理と生産との関係が進行しているのである。しかし生命の生産的創造力は非合理的なものであって、知性の指導がなければ忽ち本能的展開を始める。調和のある共同生活は知性の作用を必要とする。知性もまた生命的作用の感性(愛情)を欠くならば、管理は動脈硬化に陥り行詰ってしまうものである。管理は常に生命的創造力を基本とすることに於いて成立するものである。

 支配権力が崩壊するのは、外的または内的圧力によって奪われる以前に既にその支配権力は管理能力を失い、内部的に崩壊しているというのが通例である。

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人類思想の歴史と未来

柊原青年団の歩み

六、戦時下の青年団

 昭和十二年日華事変が勃発し、そのため国内でも軍需産業が盛んになり、今まで農業をしていた者も都会への流出が多くなった。

 また、軍では一般徴募兵では軍人の不足から陸海軍共多くの志願兵を採用した。従って農村では徴兵、志願兵が多く、若者達が少なくなっていった。

 戦争が長引くにつれ、国は総動員令等を発令し、農村でも男は殆んど徴兵され、最後は女子も挺身隊の名のもとに軍需工場などに駆り出され農村には人影が少なくなっていった。

 戦争の激化するにつれ、多くの将兵が戦死し、柊原でも出征した多くの若者が命を失っていった。

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