いしずえ

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(四)柊原中学校 さざなみ保育園

一、柊原中学校

 昭和二十二年新学制によって、垂水中学校柊原教場として発足、柊原小学校内に設置、同二十四年垂水町立柊原中学校として独立、同二十五年錦町(川島絹織工場付近)に校地移転、新校舎を建設して移る。

 昭和三十四年、新城中と名目合併、同三十六年に実質統合し垂水南中学校として発足す。

 校地、校舎の建設は同三十四年に着工し三十六年一月落成し、現在に至る。

二、さざなみ保育園

 さざなみ保育園は、昭和三十年八月開園し同三十一年第一回の卒園児が巣立ち、その後平成五年三月(第三十八回卒園生)まで、一〇一九名の幼児が卒園している。

 同保育園では、優秀な保母さん達によって幼児の保育がなされ、毎年立派に保育された園児が送り出されている。

 所在地 柊原西比良 園長 黒川 徹


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柊原婦人会の歩み

七、今後の婦人会へ

 今後は婦人会とは非常に楽しい団体であるという気風を作ること、その為には何れの集落も婦人会の組織があり、年齢にも余り制限がないこと、また、一つには多くの友達が出来、その友達仲間同志が高ぶらず劣等感ももたないこと、どこでも自分の思ったことを気楽にしゃべれる団体であること、ボランティア精神を主になるよう努力する等によって婦人会も発展するのではなかろうか。(梶原)

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柊原婦人会の歩み

六、婦人会の現状と課題

 今日の社会の変遷と、人々の生活や思考も多様化し、公私共に多忙な時代となった。

 特に現代の世相は、一時として金がなければ生活できない。また、車社会でもあり、隣が車を持てば自分も持たなければ時代おくれの感をもち、一方では自己本位の考え方が強くなり、これまで農業に従事していた人々も町へ町へと職業をもとめ、男も女も外に出て働くようになり、昼間は家庭に残るは老人ばかりの社会になってきた。その為に、婦人会に加入する者が減少の一途をたどって来ている。従って婦人会の役員になりてがなくて、また、高齢者に達しない婦人達が多いのに、人の手伝い的仕事、即ちボランティア的仕事をいやがる風習が多くなり、地区でも二・三の集落で婦人会が成り立たない現状である。

 柊原婦人会も役員になりてがなくて集落婦人会の役員が毎年交替で役員をつとめ、永年役員をつとめる人は稀である。

 その理由は、お互いが非常に多忙である外に責任が重いこと、出会が多いとか、人前に出る事が重荷であるとか、種々の理由があげられる。

 しかし、一旦役員が決まると一年間の運営は計画に基づいてよく推進され、本年度も円滑に運営されているようである。

 前述のように、会員それぞれが多忙ではあるが会員自身、学問しなければならない事は多々あり、その一つとして食生活の改善がある。現在週一回公民館で料理研修会を実施しているが、多くの人に参加してほしいものである。

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中国思想

 殷王朝は多くの都市国家の支配者たちを武力で統合した盟主であった。いわゆる支配者たちは諸候であり、人民に対する殷王朝の支配は、これら諸候を介しての間接支配であった。周王朝はそのままの体制を継承した。唯周は一族の者を各地の支配者として送り込み、婚姻関係をもって有力氏族との結合を強化し、宗廟と社稷の祭祀をもって支配体制を補強したのである。

 生産力は次第に高まり、商工業も発達し、商品の流通が盛んとなるにつれ、新しい有力者が台頭し、広大な統一的経済圏が形成されてゆくにつれて強大な政治権力が要求されてくる。かくて周王朝の支配体制は次第に崩壊し、春秋戦争(前八世紀、前五世紀)時代となった。実力者になる覇権争奪の時代である。戦争時代の七國の兵力動員数はいづれも三十万人といわれている。このように戦争の規模が大きくなり戦が激しいものとなるということは、これをなしうる経済があったということである。春秋戦争時代は、また繁栄と上昇の時代であった。孔子をはじめ多くの思想家が輩出したのは、このような動乱と繁栄の時代であった。

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人類思想の歴史と未来

柊原婦人会の歩み

五、婦人会の再建

 昭和三十一年、垂水市では集落婦人会を統一し連絡協議会をつくり、連帯意識を高めるようにした。

 柊原婦人会も連絡協議会をつくり、会長、副会長、会計の三役を置き、婦人会規約も整え、その事務所を柊原地区公民館に置いた。

 毎月定例会及び総会を開いた。また、地区公民館活動と連携し住民の福祉活動にも寄与した。特に当時は地区の国道は夜電灯がなく暗く、その為外灯の設置運動にも協力し、その後の運営費の徴収を行ったり、公民館運営費の徴収にも多大の貢献をした。

 今日の地区公民館の基礎は振興会と共に婦人会が中核体となってその任を果たしたといえる。

 また、住民の生活安定にも寄与し、昭和三十六年に始まった国民年金についても積極的な協力を行い現在に至っている。

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柊原婦人会の歩み

四、終戦直後の生活

 「勝つまではガンバロー」のかけ声で、お互いに張り切ってきた。だが国敗れてみんな生きる気を失った。眼の前は真っ暗で国民は前途どう生きればよいのか、男も女もすべての人が、言うにいわれぬ気持ちであった。

 特に母は愛する夫や愛する子供を失い、そのやるせなさは言葉には表現できない毎日、途方に暮れるとはこの事だろう。今日も明日も続く哀れな姿こそ日本の母の姿であった。あたりを見ればすべて焼野ヶ原、いくら大声で泣いても再びあらわれない夫や子供達、ただ茫然とする母達の姿であった。

 しかし、女は強しという。男も女も生きるために焼跡に塩田を開き、作った塩をリックサックに詰めて、近い所では肝属地方、遠くは北九州や山口県まで出かけて物と交換して一家の飢えをつながなければならなかった。当時は他人の事を思う心はなく、ただ自分一家がどう生きるかが大事であった。

 その頃、みんなが防空壕住まいで、明けても暮れても西に東に食を求めてかけまわった。また、焼跡に家を作るにも木はなく、考えのあげくは官山に盗伐に行ったり、旧航空隊の焼け残りの木材を求めたりして雨露をしのいだ。

 一方子供達の教育の問題も深刻で、学校は全焼し、学ぶ施設がなかった。学校では、焼け残りの板べいを石垣に立てかけ、しばらくは教室がわりにした。

 戦後の婦人会は、当時の小組合のもと、その指導によって運営されたという。

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柊原婦人会の歩み

三、国防婦人会

 昭和十二年日華事変が勃発し、戦線は次第に拡大していった。

 陸軍も初めは現役兵だけだったが、戦線の拡大につれ予備兵も出征し、多くの男子は戦場に出ていった。

 連戦連勝の声のもとに、国中は喜びの声で沸き立っていたが、一方では悲しい戦死の報せが毎日のように伝えられ、多くの英霊が無言の帰還をした。

 戦時下婦人会も銃後を守れと国防婦人会と変わった。

 婦人会員も、今日も明日もと戦死者を弔う会、出征兵士を送る会等で多忙であった。

 「勝ってくるぞと勇ましく、誓って国を出たからは、手柄立てずに死なれようか……」と小さい日の丸を振って見送り、また、出征兵士の武運長久を願って千人針づくりに夜も昼も精出した。

 戦火は益々拡大し、昭和二十年には米軍機の空襲も激化し、日本全土が殆んど焼土と化した。

 国防婦人会員は、白いエプロン姿に国防婦人会のタスキがけで、会員の指揮には男子が当った。

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