いしずえ

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川崎正蔵

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没年:大正1.12.2(1912)
生年:天保8.7.10(1837.8.10)
明治期の実業家。川崎造船所の創設者。薩摩(鹿児島)藩の小商人の長男で,幼名は磯治。独学で国学や英語を学び,巨大海商の山木屋に就職し,鹿児島と長崎で海運,貿易,造船に従事した。大坂での小売商を経て明治4(1871)年に上京し,大蔵省から琉球特産品の調査を依頼され,日本国郵便蒸汽船会社の副頭取として琉球航路の開設に成功した。13年に沖縄県貢糖の特権的販売人に任命されて多額の手数料を得,また海運業や川崎紡績所の経営で資本を蓄積した。大蔵省から官有地と3万円を借用し,諸戸清六や森村市左衛門の融資を得て,11年5月に東京の京橋区築地南飯田町に川崎造船所を創設し,五代友厚から初期の運転資金の援助を受けた。19年4月に官営兵庫造船所の貸し下げを受け,経営の合理化を行った上で20年7月に払い下げを許可され,1割利引計算法によって約6万円を即納し,私営の川崎造船所としてスタートした。「商戦は最初の5分間」「大厦の材は一丘の木にあらず」を経営のモットーとし,市場の拡大のために奔走して造船所を拡大したが,29年10月に株式会社に組織変更したときに松方幸次郎を社長に就任させ,自らは病気のため顧問に退いた。新会社の2万株の大株主として死去するまでに187万円の莫大な配当を得,これで多数の株式と土地を購入し,31年に神戸新聞社,38年に神戸川崎銀行,さらに39年に朝鮮に川崎開成社という小作農場を設立した。美術品の収集家としても知られ,神戸布引の本邸内に長春閣という美術館を設けて,政財界人と交歓した。ナショナリズムの強い信奉者で,人脈作りの才能を持ち,大久保利通,松方正義,五代友厚を中心とする薩摩人ネットワークの中に入り込めたことが,成功の最大の要因であった。<参考文献>山本実彦『川崎正蔵』,三島康雄『造船王川崎正蔵の生涯』
(三島康雄)

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