宿の二階に導かれて、一浴の後葛衣涼しく欄干に凭る。周廻一里と聞く湖を擁して、凝然と立つ森の梢を神秘な星が覗いて居る。闇に擴がる湖光、これから幾夜か私の眠を安からしめて呉れるであろう。それにしても今朝去った東京の黄塵~車中の無状~一瞬の後のこと秘境まことに私の夢に移り變る世界か、世界の夢に迷える私か。恍として室を顧れば、そこには十有餘人の道友がほの青い電燈の光に凞々として笑い興じて居た。
「月の無いのが残念だ」と田中君が呟く。
「十二時過ぎねば月は出まい。」小林君が囁く。
「下弦の月は凄かろう」私は思わず湖上の弦月を想像して聲を失した。依田君が聲に應じて答えた。
「明日の晩あたり、一つ五更に舟を浮べてお載せしませう。」皆の顔に規せずして微笑が上った。