節分にその年の恵方を向いて巻き寿司に無言でかぶりつく。そうすれば幸せになる、願い事が叶うーー。毎年恒例の行事となりつつある「恵方巻」。ただ、この風習の由来は定かではない。あたかも伝統であるかのように「装われた」ものだという。
フォークロリズムとは、伝統的な民間伝承が、違う文脈で使われるようになることを指す言葉だ。
「もともとは船場の旦那衆が、花街でやっていた遊びでしょうね」
岩崎さんの聞き取り調査などによると、かつては商家の旦那たちが、遊女と巻寿司を使った遊びを楽しんでいたのだという。
それが少しずつ、人々に浸透していったのだろうか。明治末期の大阪で生きた人が残している回顧録などには、「家でそういうことをしていた」という記載もあるという。
こうした「怪しげな風習」(岩崎さん)に「それらしさ」を付与したのが、商業キャンペーンだった。
岩崎さんは、巻寿司に関するビラを収集している。発見した一番古いものは、1932(昭和7)年に大阪鮓(すし)商組合後援会が発行したものだった。
「幸運巻寿司」をPRするためのビラには、こんな内容が書かれている。
”この流行は古くから花柳界にもて囃されていました。それが最近一般的に宣伝して年越には必ず豆を年齢の数だけ食べるように巻寿司が食べられています。
これは節分の日に限るものでその年の恵方に向いて無言で一本の巻き寿司を丸かぶりすればその年は幸運に恵まれるということであります。
宣伝せずとも誰言うともなしにはやってきたことを考えるとやはり一概に迷信として軽々しく感化すべきではない”
次に古いのは、1940年(昭和15)年に同じ組合が発行しているもの。そこに書かれていることは、こうだ。
”巳の日に巳寿司と言うてお寿司を喰べるように毎年節分の日にその年の恵方に向かって巻寿司の丸かぶりをすると大変幸運に恵まれるという習わしが昔から行事の一つとなって年々盛んになっています”
「習わし」「昔からの行事」としつつ、その由来には一切触れられていない。
「花柳という言葉が消えているのは、時勢としてよろしくないとの判断があったのかもしれません」
この年は「皇紀2600年」の節目。戦時であり、国威高揚に熱心だったご時世だ。
「大変幸運に恵まれる」ことは、消費者が望んでいたものでもあった。
その後、高度経済成長期に突き進む日本で、この「風習」を利用したのが、スーパーマーケットとコンビニエンスストアだった。
「全国展開の基礎をスーパーがつくり、結実させたのはコンビニです」
1970年代後半から、大阪の海苔組合や厚焼組合などがビラを発行し始めた。大手のスーパーマーケットから依頼されたものもあったという。ただ、どれも「昔の言い伝え」などとしているだけだ。
一方の鮓組合は、風習の起源を明確に示したビラを発行している。いつからかは不明だが、1990年のものにはこう記載されているという。
”江戸時代の末期若しくは明治の始め頃から大阪の中心地、船馬が発祥地とされております。商売繁盛、無病息災、家内円満を願ったのが事の始りです。
一説には若い女性の願いである好きな人と一緒になりたいという祈りから広く普及したとも伝えられております”
岩崎さんは先出の論文で、こう指摘している。
「鮓組合のコピーによって昔からの言い伝えに根拠が与えられ、いわば怪しげで不可思議な風習が本物となった、あるいは本物であることの装いができあがった、と考えられる」
こうして作られた「風習」はスーパーマーケットの折り込みチラシやチェーン店の寿司屋、コンビニエンスストアによって広がりを持つようになっていった。それも、あの手この手を使って。
「一方のバブル崩壊後は、社寺で祈祷を受けたノリを使ってプレミアをつけていたようです。その頃はリストラの嵐でしたから、国民みんな大変な思いをしている。祈りをキーワードに巻寿司も販売されたんでしょうね」
それでも、昭和60年代や平成の初め頃ではまだ全国に浸透しているとは言い切れない状況だったという。
そんな中、チェーン店として初めて「恵方巻」という言葉を用いた全国展開を図ったのが、セブン‐イレブンだ。
「1989年に広島県の一部店舗で『太巻きを節分にどうぞ』と売り出してみたのが始まりです。2月は催事が節分しかなく、関西出身のオーナーが関西では節分に太巻きを食べるという風習があることに目をつけて、おすすめしてみたそうです」
オーナーの目論見は功を奏し、そのまま横展開が広がった。全国展開が始まったのは、1998年のことだ。
「北海道や沖縄には最近になってようやく風習が広がり始めたようです。特に沖縄はもともと節分行事がありませんでしたから。それでも、スーパーマーケットがどんどん宣伝をしている」
「これで、ほぼ全国制覇ですね。まだ伝統と言えるかは微妙ですが、間違いなく、将来的には伝統になるでしょうね」