いしずえ

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『童心殘筆』より

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暁風残月の遊



言いしれぬ感慨のメロディーが縹渺として煙波の彼方に消える。頽然として依田泰君が余に杯をさした。「長星汝に一杯の酒を勸めん。世豈萬年の天子有らんや……先生つぎましょう……」彼は憂国歌人である。「先生真實のところあの気分ですね……ありや誰でしたかね」「東晉の孝武でしたかな」私は静に溢るゝ麦酒の泡に唇をつけた。茫々たる湖上の闇に船は梶取る人も無く流れて居る。私は何となくこの景色に深刻な人生の相を思い浮かべて、今更の様に舟中に眸を凝らした。提灯の火影に田中保雄君が恍洋として舷に凭つて微吟して居る。私はその何處か沈痛な面持に暗然として杯を返した。彼は道を学ぶに堪ふる沈毅な材であるが、天大任を斯の人に降さんとするや、必ず其の人を様々に苦しめるものと孟子は説いた。天は彼の家を焼き、近くまた其の妻を奪って、幼き三兒を彼の手に残した。彼は黙して多くを語らぬ。然しながら其の胸中に千愁萬恨があろう。私等の衣袂は露にしっとり濡れた。