勘平は、三十五歳のころ、とうとう、探し求めていた先生に、めぐり会うことができました。
それは、京都の小栗了雲先生です。
先生は、人間の本性について、深く悟っておられました。
勘平も、少しばかりは、わかっているつもりでしたが、まるで、生卵が、大きな石にぶつかったように、まったく、話になりませんでした。
それから、昼夜をとわず、勉強と工夫をかさねました。
そして、四十歳のころ、郷里のお母さんの看病をしていたとき、心に気づくものがありました。
そのことを、了雲先生に申したところ、まだまだ「自分が」の「我」が、残っていると言われました。
それから、一年もの間、寝食を忘れて工夫し、ついに、大宇宙の一体感を味わいました。
勘平は、四十三歳のとき、長い間つとめてた、呉服屋さんをやめました。
そして、四十五歳のとき、京都の車屋町で、講座を開きました。
門の柱に、次のような、はり紙をしました。
「○月○日から、講座を開きます。いっさいお金は、いりません。どなたでも、ご遠慮なくお聞きください。」
はじめは、たった一人だけのときも、ありましたが、
「最初から、机に向かって、お話をする覚悟でしたから、一人でも聞いてくだされば、それで満足です。」
と、梅岩先生は言われるのでした。
故郷の東懸村は、前もうしろも山で囲まれた、美しく、静かな所です。
梅岩先生のお母さんは、たいへん蓮の花が好きでしたが、山蔭の土地で、蓮池がありませんでした。
ところが、あるとき、庭先の泥土の中から、一本の蓮が、不思議に育ちました。
明くる年には、白い蓮の花が、見事に咲きました。
お母さんは、たいへん喜ばれました。
梅岩先生も、うれしく思いました。
それは、先生が、呉服屋の番頭をやめて、京都で一人、心学の講座を開いた年でもありました。
不思議に、時を同じくして、蓮の花が美しく開いたのです。
梅岩先生の、毎日の生活は、まことに、規則正しいものでした。
朝は、日の出前に起きます。
まず、洗面をすますと、戸を開けて、家の中を掃除し、衣服をあらため、手を洗いました。
そして、神棚にお燈明をあげ、うやうやしく礼拝しました。