まず素行より始めよう、立場・立場に即して良心的に行動すること
ダンテの
神曲に「憤りの魂」というものを力説しておるのに感動したが、それは夙(つと)に『
論語』のなかに
孔子も力説したことである。「憤を発して食を忘れ、楽しんで以て憂を忘る」。もとより単なる私憤ではなく、道義的発憤であり、それが国家的、民族的、政治的発憤になると、もっともよく知れているのは文王嚇怒(かくど)、すなわち「文王一怒して天下の民を安んぜり」(
孟子)というものであろう。この義憤的精神エネルギーが民族にあれば、「文王無しと雖(いえど)も猶興(なおおこ)る」(
孟子)ことは
王陽明もその「抜本塞源論」に力説して、古来多くの志士仁人の感憤するところである。しかし、この
自由民主主義制の堕落し、巨大都市化の文明頽発生活に放縦になってしまっている今日、「猶興(ゆうこう)」というものは容易に期待できない。まず「素行(そこう)」あたりから考えねばなるまい。素行とはいうまでもなく、心ある人々がまず各々その位すなわち立場・立場に即して良心的に行動することである(中庸)。