いしずえ

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石田梅岩

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石田梅岩先生は、幼いころ、勘平と呼ばれていました。

勘平が十歳のとき、お父さんの山へ遊びに行って、栗を五、六個ひろって、帰りました。

それを昼ごはんのときに、とり出して、お父さんに見せたところ、

「それは、うちの山の栗ではない。おとなりの栗の木の枝が、うちの方へのびて、落ちたものだ。今から
すぐ、もとにあった所へ、返しに行きなさい。」

と、言われました。

勘平は、しかたなくその栗を、もとの場所に、返しに行きました。

≪うちのお父さんは、なんと厳しいことを言うのだろう。≫

と、そのときは思っていしたが、あとになってから、その厳しさが、ありがたく感じられるようになりました。

二十三歳のとき、京都の呉服屋に、住み込みで、つとめに出ました。

商売に出かけるときには、かならず書物を、ふところに入れて出かけました。

わずかな時間も惜しんで勉強しました。

≪「人たる道」を、人びとにも伝えたい。≫

という願いを持っていました。

鈴を鳴らしながら、町かどに立ってでも、という思いでした。

朝は、店の仲間たちが、寝ているうちから起き、夜は、人が寝静まってから、読書をしました。

しかし、そのために、主人の用事をなまけることは、少しもありませんでした。

年月がたつにつれて、勘平は、上の役目につくようになりました。

それでも、寒い冬の夜は、寝床の暖かい所は、若い人たちに、ゆずりました。

夏の暑い夜は、店の仲間たちが、布団からぬけ出ているのを見ては、いちいち布団を着せて、まわるのでした。

また、道を歩くときの、心がけも違っていました。

人といっしょに歩くときは、夏は、日蔭を人にゆずり、冬は、日向を人にゆずり、気くばりをして歩きました。

人知れず、工夫をつづけた勘平は、よく働き、よく勤め、日々の生活をよく慎んで、倹約につとめました。

勘平は、お店の主人のお母さんから、たいへんな信頼をうけていました。

あるとき、長くつとめている店の者が、その大奥さんに、つげ口をしました。

「勘平さんは、神道ばかり勉強して、本願寺さんへは、お参りをしませんが―。」

すると、その大奥さんは、

「そんなことは、いっさい心配ありません。本願寺さんに参らなくても、勘平さんは、立派な信仰をもっていますから、案じることはありません。それより、わたしが、いま一つ、心残りなのは、勘平さんが、将来どんな人間になって、人から認められるのか、それが、見られないのが残念です。」

論語普及会『論語の友』より