いしずえ

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2014-09-20から1日間の記事一覧

家計簿の後書きに

藩政改革 十年間 藩にはゆとり 出てきたが なぜか我が家は さにあらず 小農民に なっただけ <入門 山田方谷 至誠の人>より ブログランキング・にほんブログ村へ(文字をクリック)

方針

1 率先垂範 2 教育(学問)を重視 3 積極的な人材登用(広く農商、他領からも) 4 情報公開 5 欲を捨て、身辺をきれいに <入門 山田方谷 至誠の人>より ブログランキング・にほんブログ村へ(文字をクリック)

改革の2大理念

●事の外に立ちて事の内に屈せず 「事の外に立つ」とは、全般を見通す識見を持ち大局的立場に立つこと 「事の内に屈する」とは、一事にとらわれて視野が狭いことを言う ●義を明らかにして利を計らず 人として歩むべき正しい道(「義」)を明らかにすることが…

方谷の藩政改革が成功した理由

●根底に「至誠則脱(誠意を尽くし人を思いやる心)」と「士民撫育(すべては藩民のため)」の精神があった ●確固たる理念・方針があった <入門 山田方谷 至誠の人>より ブログランキング・にほんブログ村へ(文字をクリック)

方谷の漢詩

一国の財は一国の中に生ず 偏有り倚有れば通じ難きに苦しむ 財を通ずる畢竟他術無し ただ小私を去りて大公に帰するのみ 〝金〟〝物〟生むは 国の中 富のかたより なくすべし 経済のツボ まさにこれ 大所高所の 目を肥やせ <入門 山田方谷 至誠の人>より ブ…

中江藤樹 (1608~1648)

江戸時代初期の儒学者で、日本における陽明学の始祖とも言われる。 ブログランキング・にほんブログ村へ(文字をクリック)

川田甕江 (1830~1892)

漢学者。 備中松山藩士。 名は剛。 通称は剛介。 字は毅卿。 現在の倉敷市玉島出身。 備中松山藩の鎌田玄渓などに師事し、山田方谷の推薦によって備中松山藩に仕え、江戸学問所で教えた。 慶応四年(1868)戊辰戦争の時には藩存続のため京都等で奔走した。 …

榎本武揚 (1836~1908)

東京出身。 幕臣、政治家。 安政三年(1856)長崎海軍伝習所に入所。 明治元年(1868)海軍副総裁となり、江戸開城後、官軍による軍艦の接収を拒否し、箱館五陵郭で官軍に抵抗したが降伏。 明治七年(1874)海軍中将兼駐露公使となり、翌年樺太・千島交換条…

熊田恰 (1825~1868)

備中松山藩士。 名は矩芳。 備中松山城下で生まれる。 剣術新影流免許皆伝。 修業時に右目を失ったが、門弟の育成に努めた。 藩主板倉勝静の親衛隊長となり、方谷在京時には身辺警護を行った。 ブログランキング・にほんブログ村へ(文字をクリック)

私の思い

父母天地の 恵みうけ 学問の道 こころざす 男たるもの かく思う 何もできずに 終われない この世の中を 良くしたい 思いばかりが 先に立ち ひとりため息 つく我を 考えすぎと 人は言う けれども時は 短くて 悩み伝える 友もなし 真に大きな この恵み いつか…

母からの手紙 (方谷最初の詩)

手紙にこもる 母の恩 帰り待つその 母の愛 十と五行にに 込めるのは 大事になされ 学と体 <入門 山田方谷 至誠の人>より ブログランキング・にほんブログ村へ(文字をクリック)

平重盛 (1138~1179)

平安時代末期の武将。 平清盛の長男。 ブログランキング・にほんブログ村へ(文字をクリック)

佐久間象山 (1811~1864)

信濃松代藩士。 洋学にも通じ兵学を研究して開国を唱えるが、攘夷派の刺客に襲われ倒れる。 ブログランキング・にほんブログ村へ(文字をクリック)

中村敬宇 (1832~1891)

江戸に生まれ幕末に渡英。 維新後は啓蒙家として明六社などで活躍。 ブログランキング・にほんブログ村へ(文字をクリック)

横井小楠 (1809~1869)

熊本藩の開明的思想家。 越前藩に招かれ幕政にも影響を及ぼす。 ブログランキング・にほんブログ村へ(文字をクリック)

池田草庵 (1813~1878)

但馬生まれの儒者。 但馬聖人と仰がれる。 ブログランキング・にほんブログ村へ(文字をクリック)

安積艮斎 (1791~1860)

福島郡山出身の儒者。 昌平黌の教授を務める。 ブログランキング・にほんブログ村へ(文字をクリック)

大橋訥庵 (1816~1862)

江戸生まれの尊皇攘夷家 ブログランキング・にほんブログ村へ(文字をクリック)

渡辺崋山 (1793~1841)

三河田原藩士で洋学にも通じ画もよくする。 著書『慎機論』で幕府批判。 ブログランキング・にほんブログ村へ(文字をクリック)

木山楓渓 (1788~1865)

新見藩士で丸川松隠の門に学ぶ。 経学を修め藩政にも参画、方谷の先輩として親交を深めた。 ブログランキング・にほんブログ村へ(文字をクリック)

岩倉具視 (1825~1883)

孝明天皇の侍従、明治政府において参与、右大臣などを努める。 明治四年(1871)特命全権大使として使節団を伴い欧米視察。 ブログランキング・にほんブログ村へ(文字をクリック)

大原重徳 (1801~1879)

公家で孝明天皇に重要された幕末の宮中政治家 ブログランキング・にほんブログ村へ(文字をクリック)

河井継之助 (1827~1868)

越後長岡藩士。 号は蒼龍窟(そうりゅうくつ)。 越後長岡城下に生まれる。 諸国遊学し斎藤拙堂、古家謹堂、佐久間象山、山田方谷らに学ぶ。 長岡藩で藩政改革を断行し、大きな成果をおさめた。 慶応四年(1868)戊辰戦争では当初長岡藩を中立とし、存続に尽…

方谷の遊学先は?

この時、方谷は松隠に宛てた書状で、 「天人の理をきわめ、性命の源に達し、大賢君子の境地にまでのぼる」 と己の志を記しています。 天人の理 天の道は人の道と合致するという道理 性命の源 人間の道徳の根源 <入門 山田方谷 至誠の人>より ブログランキ…

春日潜庵 (1811~1878)

公卿の久我家の諸大夫として京に生まれ、維新後は奈良県知事などを歴任。 ブログランキング・にほんブログ村へ(文字をクリック)

朱子 (1130~1200)

中国南宋の儒学者。 名は熹。 四書を儒学の根本教典とし、周敦頤・張戴らの学説を総合して朱子学を大成した。 ブログランキング・にほんブログ村へ(文字をクリック)

方谷の漢詩

藩主板倉勝静公にお供して江戸に行き、一ヵ月余り滞在した。 ちょうどその頃、血を吐いて倒れてしまった。 その時、王陽明先生の心中の賊、すなわち自己中心的な心を倒すという句を思い出して、漢詩を詠んだ。 ひとりよがりの 強すぎる 心を討てと 神が言う …

奏者番兼寺社奉行の藩主への助言は?

文久元年三月に、方谷は、激務の疲労からか、愛宕山の下の路上で吐血して倒れます。 急を聞いて弟子の三島中洲が藩邸から駆けつけたところ、道端の商店で手当てを受けていた方谷は、「詞ができた。」と言って一つの詩を筆記させています。 この詩は、王陽明…

方谷の遊学先は?

そして、三度目の京都での遊学では、寺島白鹿に学ぶほか儒学者の鈴木遺音にも就き、また後に陽明学者として名を成す春日潜庵らとも交わり、この時、陽明学と出会います。 天保四年(1833)秋、方谷は王陽明の『伝習録』を読み、「伝習録抜粋序」を書き残して…

精神一到何事か成らざらん

中国の儒学者朱子の有名な言葉で、精神を集中して行えば、どんな難事も成し遂げられるという意味。 ブログランキング・にほんブログ村へ(文字をクリック)